人形佐七捕物帳 巻一 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  羽子板娘  開《あ》かずの間  嘆きの遊女  音羽の猫  螢屋敷  佐七の青春     羽子板娘  辰源《たつげん》のお蝶《ちょう》   ——羽子板になった娘がつぎつぎと  七草をすぎると、江戸の正月もだいぶ改まってくる。辻つじ回わってあるく越後獅子《えちごじし》、三河《みかわ》万歳もしだいに影をけして、ついこのあいだ、赤い顔をしてふらふらと、回礼《かいれい》にあるいていたお店の番頭さんが、きのうにかわるめくら縞《じま》のふだん着に、紺の前掛けも堅気らしゅうとりすました顔もおかしく、しめ飾り、門松に正月のなごりはまだ漂うているものの、世間はすっかりおちついてくる。  このころになって、そろそろ忙しくなるのが、しばい、遊廓、料理屋さん。いまでは暮れも正月もない、遊びたいやつは遊ぶが、昔はげんじゅうだから、新年は家にいて年賀をうけたり、旧知、懇意のあいだがらを回ってあるくから、遊ぼうにも遊ぶひまがない。  その七草のばん、小石川音羽にある辰源《たつげん》という小料理屋では、江戸座の流れをくむ、宗匠連の発句の初会《はつかい》があるというので、宵《よい》から大忙しで、てんてこ舞いをしていた。  おかみのお源というのは、もと岡場所《おかばしょ》でかせいでいたといううわさのある女だが、鉄五郎という板場と夫婦になり、ふたりでかせいでいまの店をきずきあげたというだけあって、なかなかのしっかりもの。先年、亭主《ていしゅ》の鉄五郎が亡《な》くなってからも、女手ひとつでビクともしないところは、さすがだという評判である。  そのお源が座敷へ出て、さかんにあいきょうをふりまいていると、水道端にすむ梅叟《ばいそう》という宗匠が、ふとそのそでをとらえ、 「そうそう、おかみさん、お蝶《ちょう》ちゃんはどうしましたえ」  と尋ねた。 「お蝶ですか、あいかわらずですよ」 「少しは、客の席へ出したらどうだえ。お蝶ちゃんもこんどはたいした評判だねえ。なにしろ、羽子板になった江戸小町、なかでも、お蝶ちゃんの羽子板が、いちばんよく売れるというから豪気なもんだ」 「なんですか、あんまり世間でさわがれるもんですから、当人はかえってポーッとしているんですよ」  といったが、お源もさすがに悪い気持ちではないらしい。 「あんまりだいじにしすぎると、かえってネコになってしまうぜ。少しは座敷へ出して、われわれにも目の保養させるもんだ」 「いえね、だんな、わたしもあの娘がてつだってくれると、少しは、からだが楽になるんですけれど、ねっからもうねんね[#「ねんね」に傍点]でね」 「そうじゃあるめえ、おかみさん」  と、横合いから口を出したのは、俳名春林という町内のわかい男。 「うっかり客のまえへ出して、あやまちでもあったらたいへんだというんだろう。なにしろ、このおかみときたらすごいからねえ。われわれなんぞ、てんで眼中にないんだから。いずれそのうち、ご大身の殿様にでも見染められて、玉のこしという寸法だろう」 「まあ、こちら、お口が悪いのねえ」  といったが、さすがにお源はいやな顔をする。  お源のひとり娘——といっても養女にきまっているが、お蝶というのは、まえから音羽小町とさわがれたきりょうよしだったが、ことしはとうとう、神田《かんだ》お玉が池の紅屋の娘、お組や、深川境内の水茶屋のお蓮《れん》とともに、江戸三小町とて、羽子板にまでなった評判娘。  きりょうのいい娘をもった、こういう種類の女の心はみんなおなじで、お源も内々、そういう下心のあったところへ、ちかごろではさる大藩のおるすい役から、おそば勤めにという下交渉もあるおりから、ずぼしをさされて、お源はいっそう不愉快なかおをするのである。 「そうそう、それで思い出したが、深川のお蓮はかわいそうなことをしたねえ」  と、話のなかへ割りこんできたのは、伊勢徳《いせとく》といって、山吹町へんのお店のあるじ、俳名五楽という。 「さようさ。せっかく羽子板にまでなって、これからおおいに売り出そうというおりから、春をも待たで、あんな妙な死にかたをしたんだから、親の嘆きもさることながら、当人もさぞ浮かばれめえな」  梅叟はキセルをたたきながら、暗然としたかおをした。  お蓮というのは、お蝶とともに羽子板になった江戸三小町のひとり。深川に水茶屋を出している八幡裏《はちまんうら》の喜兵衛《きへえ》というものの娘だが、暮れに柳橋のさるごひいきのうちへ、ごあいさつにいったかえりがけ、どういうものか大川ばたあたりで、土左衛門《どざえもん》になってその死体がうかんだ。なにしろ、羽子板にまでなった評判のおりから、お蓮の死は読み売りにまで読まれて、うわさはこの音羽にまできこえていた。 「なにしろ、柳橋のひいきのうちで、たいそうもなくごちそうになって、当人したたか酔っていたというから、おおかた、足を踏みすべらしたんだろうという話さ」 「大川ばたもあのへんはあぶないからね。しかし、ひいきもひいきじゃねえか、わかい娘を盛りつぶすさえあるに、それほど酔っているものを、かごもつけずにかえすというのは、いったい、どういう了見だかしれやアしねえ」 「ところが、だんな、さにあらずさ」  と、若い春林がにわかにひざをのり出すと、 「ここにひとつ、妙な聞きこみがありやす。たしか、お蓮の初七日の晩だといいやすがね、しめやかにお通夜《つや》をしている八幡裏の親もとへ、変なものを、投げこんでいったやつがあるんですとさ」 「変なものって、なにさ」 「それが、だんな、羽子板なんです。お蓮の羽子板なんです。しかも、押し絵の首のところを、グサリと、こうまっぷたつに、ちょんぎってあったということで」 「ほほう」  一同、おもわずまゆをひそめると、 「すると、お蓮が死んだのは、あやまちじゃなかったのか」 「あっしもそう思うんで。押し絵になるほどの娘だから、なんかといろの出入りも多かったろうじゃございませんか。絞め殺しておいて、川へぶちこんじまやアわかりゃしません。こんなことがあるから、小町娘を持った親は苦労だ。おかみさん、お蝶さんも気をつけなくちゃいけませんぜ」 「あら、いやだ。正月そうそうから縁起でもない」  お源はいまいましそうに、青いまゆをひそめたが、そのときにわかに、内所《ないしょ》のほうでワアワアというさわぎが起こったかと思うと、ころげるようにはいってきたのは、女中|頭《がしら》のお市。 「おかみさん、たいへんです、たいへんです、お蝶さんが、お蝶さんが……」  と、敷居のきわでぺったりとひざをつくと、 「うらのお稲荷《いなり》さんの境内で、ぐさっと乳のしたをえぐられて——えぐられて——」  きくなり、お源は、ウームとばかり、その場にひきつけてしまった。  鏡の合い図   ——赤ん坊も三年たてば三つになる 「こんにちは。親分はおいででござんすかえ」  護国寺わきに、清元延千代《きよもとのぶちよ》という名札をあげた、細め格子《ごうし》をしずかにあけて、ものやわらかに小腰をかがめたのは、年のころまだ二十一、二、色の白い、役者のようにいい男だった。 「おや、だれかと思ったら、お玉が池の佐七つぁんじゃないか。さあ、さあ、お上がんなさいよ」 「これは、ねえさん、明けましておめでとうございます」 「ほっほっほ、佐七つぁんの、まあ、ごていねいな、はい。おめでとう。さあ、お上がんなさい。親分もちょうどおいでなさるから」 「佐七じゃねえか、まあ上がんねえ」  奥からの声に、 「それじゃご免こうむります」  ていねいにあいさつして佐七があがると、あるじの吉兵衛《きちべえ》はいましも、長火ばちのまえにあぐらをかいて、茶をいれているところだった。  女房に清元の師匠をさせているが、この吉兵衛、またの名をこのしろ[#「このしろ」に傍点]といって、十手捕縄《じってとりなわ》をあずかる御用聞き。音羽から山吹町、水道ばたへかけてなわ張りとする、岡《おか》っ引《ぴ》きのうちでも古顔の腕ききだった。 「もっと早く、ご年始にあがるところでございますが、なにせここんところへきて、ばかにとりこんじまいまして」 「どうせそうだろうよ。若いうちはとかく楽しみが多くて、こちとらのような年寄りにゃ御用はねえもんだ。しかしまあ、よくきてくれたな。お千代、茶でもいれねえ」  この佐七というのは、神田お玉が池あたりで、親の代から御用をつとめている身分。先代の伝次というのは、吉兵衛と兄弟分の杯もした、腕ききの岡っ引きだったが、せがれの佐七はあまり男振りがいいところから、とかく身が持てず、人形佐七と娘たちからワイワイいわれるかわりに、御用のほうはおるすになるのを、いまでは親代わりのつもりでいる吉兵衛は、日ごろからにがにがしく思っているのであった。 「おふくろのお仙《せん》さんは達者かえ」 「はい、あいかわらずでございます。そのうち、いちどお伺いすると申しておりました」 「いや、それはどうでもいいが、おまえもあまりお仙さんに、心配かけるようなまねはよしたがいいぜ。このあいだもきて、さんざん愚痴をこぼしていったっけ。おまえ、明けていくつになる」 「へえ、あっしは寛政六年、甲寅《きのえとら》のうまれですから、明けて二になります」 「二になりますもねえもんだ。おまえのおとっつぁんの二のとしといやア……いや、もう、よそう、よそう。いうだけ愚痴にならアな」 「面目しだいもございません」  佐七は頭をかきながら、 「ときに、親分、ゆうべむこうの辰源で、とりこみがあったというじゃございませんか」 「なんだ、佐七、おまえその話でわざわざやってきたのか」 「いえ、そういうわけでもございませんが、ひょっとすると、あっしのなわ張りのほうへも、かかりあいができてくるんじゃねえかと思いましてね」 「こいつはめずらしい。お千代、みねえ。赤ん坊も三年たてば三つになるというが、佐七もどうやら身にしみて、御用をつとめる気になったらしいぜ」 「なんだえ、おまえさん、そんな失礼なことを——」 「よしよし、おめえがそういう了見なら、おれもおおきに力こぶの入れがいがあらア。なるほどなあ、羽子板娘のもうひとりは、お玉が池の紅屋の娘だったな」  と、吉兵衛はしきりに感心していたが、やがて、ぐいと大きく、ひざをのりだすと、 「佐七、まあ、聞きねえ、こういうわけだ」  と、吉兵衛が話したところをかいつまんでしるすと、辰源のひとり娘お蝶はその晩、ただひとり、奥の内所で草双紙かなにかを読んでいた。すると、そのとき、どこからか、きらり、きらりと光がさしてくる。お蝶はそれをみると、ポーッとほおをあからめて、草双紙から顔をあげた。  というのは、お蝶にひとつの秘密がある。辰源の裏側に、富士留という大工の棟梁《とうりょう》の家があって、そこに紋三郎というわかいものがいるが、お蝶はいつか、この紋三郎と深いなかになっているのだ。しかし、なんといってもあいてはしがないたたき大工、欲のふかいお源がこの恋をゆるそうはずがない。ふたりはひとめをしのんで、はかない逢瀬《おうせ》をつづけているのだが、このあいびきの合い図になるのは、一枚の鏡なのである。  富士留の物干しに立って、ろうそくのうしろでこの鏡を振ると、こいつがちょうど、辰源の内所へ反射することになっている。恋するふたりはいつか、こんなはかない手段をおぼえていたのである。  お蝶は壁にうつる光をみると、もうやもたてもたまらなかった。  ちょうどさいわい、母のお源は表の座敷につきっきりだし、女中たちもてんてこ舞いをしているおりから、だれひとり、お蝶の挙動に目をつけているものもない。彼女はそっと、庭げたをつっかけたが、そのとき、 「お蝶さん、どこへおいでなさいますえ」  と、うしろから呼びとめたのは、お燗《かん》を取りにおりてきた女中頭のお市だった。 「あの、ちょっと」 「いいえ、いけませんよ、お蝶さん。わたしはちゃんと知っていますよ、また、紋さんに会いにおいでになるんでしょう」 「あれ、お市、そんなこと」 「かくしたっていけませんよ。おかみさんはごまかされても、このお市はだまされやしませんよ、むこうの物干しから鏡の合い図で……ね、そうでしょう」 「お市、おまえ、そんなことまで知っているのかえ」 「それはかめの甲より年の功、いまもむこうで見ていたら、きらきらとその壁に映っていたじゃありませんか。ほっほっほ。それじゃお蝶さん、おかみさんの目がこわいから、なるべく早くかえっておいでなさいよ」 「あれ、それじゃお市、おまえこのまま見のがしておくれかえ」 「わたしだって鬼じゃありませんのさ」 「お市、恩にきるよ」  いきなお市のはからいに、お蝶はいそいそと出かけていったが、それからまもなく、客を送りだしたお市が、なにげなく表をみると、お蝶と会っているはずの紋三郎が、ふろ帰りだろう、手ぬぐい肩に友だちとワイワイ話しながら通るではないか。  おや、とまゆをひそめたお市が、 「ちょっと、ちょっと、紋さん」  と、低声《こごえ》で呼びこむと、 「おまえ、お蝶さんといっしょじゃないのかえ」 「お蝶さん?」  紋三郎が、さっと顔色かえるのを、 「いいのよ、あたしゃなにもかも知っているんだから。しかし、変だねえ、さっきたしかに鏡の合い図があって、お蝶さんは出かけたよ」 「鏡の合い図? そ、そんなはずはありませんよ。おいらアいままで、兼公とお湯へいってたんだもの——」  お市はようやく、ことの容易でないのに胸をとどろかせた。 「紋さん、いったいおまえさんたち、いつもどこで会っているの」 「どこって、たいてい裏の駒止《こまど》めの稲荷《いなり》だけど」 「それじゃおまえ、すまないが、ちょっといってみてきておくれ、なにかまちがいがあるといけないから」  紋三郎も、もとよりほれた女のことだ、異議なくお市の頼みをひきうけたが、それからまもなく、血相かえてとびこんでくると、 「お市つぁん、たいへんだ。お蝶さんが、お蝶さんが殺されて……」 「……と、まあいうようなわけだ。そこで、大騒ぎがもちあがって、駒止め稲荷へ出かけてみると、案《あん》の定《じょう》、お蝶はひとつき、乳のしたをえぐられて死んでいるんだが、ここに妙なのは……」  と、このとき吉兵衛、とんとキセルをたたくと、 「そのお蝶の死体のうえに、だれがおいたのか羽子板がいちまい。むろん、お蝶の羽子板だが、こいつが、プッツリ首のところをちょんぎってあるのさ」  佐七はだまってきいていたが、 「それで、紋三郎という野郎はどうしました」 「まあ、さしあたり、ほかに心当たりもないので、こいつを番屋へあげてあるが、人殺しのできるような野郎じゃないさ。それに、お蝶が出かけていったじぶんには、ちゃんとふろンなかで、鼻歌かなんかうたっていやがったという、聞きこみもあがっているんでの」 「それにしても、ふたりのほかにだれしる者もねえはずの、鏡の合い図があったというなアおかしゅうございますね。どうでしょう、親分」  と、佐七はキッとおもてをあげると、 「親分のなわ張りへ手をいれようなぞという、だいそれた了見じゃございませんが、ちょっと気になります。ひとつ、辰源のほうへお引きまわしを願えますまいか」 「よし、おまえがその気になってくれりゃ、おれもおおきに張り合いがあらあ。ちょうどこれから出かけようと思っていたところだ。望みならおまえもいっしょにきねえ」  佐七より吉兵衛のほうがはりきっている。  鬼がわらの紋所   ——残りの羽子板娘も行くえ不明  正月というのに、忌中の札をはった辰源は、大戸をおろして、お源はまるで気も狂乱のていたらく。ことに、女中頭のお市は、お蝶を出してやった責任者だけに、お源からさんざん毒づかれたり、くどかれたりして、病人のように青い顔をしていた。 「おとりこみのところ恐れ入りますが、ちょっとお内所を見せていただきとうございますが」  お蝶の死体にも羽子板にも目もくれず、いきなりそういった佐七は、半病人のお市に案内されて、うす暗い奥の座敷へとおった。 「なるほど、むこうにみえるのが、富士留さんの物干しでございますね」  佐七は裏べい越しにみえる物干しと、座敷の壁を見くらべていたが、 「もし、お市さん、ゆうべおまえさんが見た鏡の影というのは、どのへんに映っていましたかえ」 「はい、あのへんでございます」  お市が裏のほうの砂壁を指さすと、 「そりゃおかしい、お市さん。富士留さんのほうから照らしたのなら、こっちのほうへ映らなきゃならんはずだ。ねえ、親分、そうじゃございませんか」 「なるほど、こいつは気がつかなかった。お市、まちがいじゃないかえ」 「いいえ、まちがいじゃございません。たしかにそっちの壁でした。表からはいってきて、すぐ、目についたんでございますもの」 「なるほど、おまえがそういうんなら、そのとおりだろう。ときにお市さん、おまえ懐中鏡を持っちゃいませんかえ」 「はい、これでよろしゅうございますか」 「けっこうけっこう。それじゃ、親分、それからお市さんも、ちょっとここで待っていておくんなさい」  なにを思ったか、人形佐七は、鏡をもってスタスタと座敷をでると、やがて内所をはすに見おろす二階座敷の小窓をガラリとあけて、 「お市さん、ちょっと見ておくんなさい」  と、キラキラ鏡をふりかざして、 「ゆうべおまえさんの見た影というのは、そのへんでございましたかね」  お市は壁に映る影を見ながら、 「はい、たしかにそのへんでございました。でも……」  佐七はにっこり笑うと、すぐまたもとの内所へかえってきて、 「お市さん、ゆうべあの二階座敷には、どういうお客がありましたえ」  お市はさっと顔色を失うと、 「それじゃ、ゆうべのお客さんが……」 「さようさ、そこの壁へ影をうつすなア、あの二階座敷よりほかにゃねえ。お市さん、その客というのはどういうひとですえ」  お市も、しかし、その客を知らなかった。紫色のずきんをかぶったお武家で、この家ではじめての客だという。 「そういえば、お蝶さんを送り出して、座敷へあがっていくと、そのお武家が窓のところに立っていなさいました。それから大急ぎで勘定をすませると、お出かけになりましたが……」 「親分」  佐七は意味ありげに、吉兵衛のほうをふりかえると、 「このぶんじゃ、どうやら紋三郎に、かかり合いはなさそうでございますねえ」 「佐七、おまえ、なにか心当たりがあるのかい」 「いいえ、いまのところはからっきし。しかし、お市さん、おまえそのお侍の顔に見覚えがあるかえ」 「さあ……」  と、お市は困ったように、 「なにしろ、はじめてのお客でございますから。しかし、ああ、思い出しました。そのお客さまのお羽織の紋所というのが、ひどく変わっているのでございますよ。鬼がわらのご紋なので」 「鬼がわら?」  と聞いて佐七はちょっと顔色をうごかしたが、 「いや、親分、いろいろありがとうございました。それじゃこのくらいで」 「佐七、もうかえるのか。それじゃおれもそこまでいこう」  と、表へ出ると、 「おい、佐七、おまえなにか心当たりがあるんじゃねえかえ。あるならあるで、いってもらわにゃ困るぜ」 「いえ、もう、いっこう……」 「でも、おまえ、鬼がわらの紋所の話を聞いたときにゃ、顔色をかえたじゃないか」 「はっはっはっ、さすがは親分だ。かぶとをぬぎやした。親分え、それじゃちょっと神田まで、お運びねがえませんかえ」 「よし、おもしれえ、おれもひとつ、おまえのてがらをたてるところを見せてもらいてえもんだ」  ふたりは連れだって神田までかえってきたが、すると、佐七の顔を見るなり、母のお仙が、 「佐七、どこをうろついていたんだえ。おや、これは護国寺の親分さんですかえ」 「おっかあ、るすになにかあったのかい」 「なにかどころじゃないよ。紅屋のお組さんがゆうべからかえらないというので、大騒ぎだよ」  聞くより、佐七はさっと顔色をうしなった。  山の井|数馬《かずま》   ——それじゃ、昨夜の辰源の客とは  神田お玉が池で、古いのれんを誇っている質店、紅屋の娘お組は、きのう本郷にいる叔母《おば》のところへ遊びにいってくると、供もつれずにひとりで出かけていったが、晩になってもかえってこなかった。  神田と本郷じゃたいして遠くもないことだし、それにお組は叔母のところへいくと、よくむだんで泊まってくることがあるので、紅屋では気にもかけずに寝てしまったが、朝になってきくと、ゆうべ、音羽の羽子板娘が殺されたといううわさ。  にわかに気になりだして、本郷へ使いを出してみると、使いといっしょに叔母のお葉が、血相かえてやってきた。  お組はきのう、お葉のもとへはこなかったのだ。 「ねえさん、これはどうしたというんです。それならそれと、なぜ、ゆうべのうちに使いをくれなかったんです」  と、お葉にきめつけられて、後家のお園はまっさおになった。  お葉は先年死んだお園の亭主|甚五右衛門《じんごえもん》の妹で、本郷でも有名な小間物店、山城屋|惣八《そうはち》にとついでいるので、主人なき紅屋にとっては、もっとも有力な親類筋なのだ。そこへ変事をききつけて、お葉の亭主惣八もかけつけてくる。  番頭の清兵衛《せいべえ》もくわわって、あれやこれやと、お組の立ちまわりそうなところを相談しているところへ、だれか帳場へ羽子板をおいていったものがあると、小僧の長吉が持ってきた。  みるとお組の羽子板で、しかも例によって、その首がプッツリとちょんぎられているのだから、さあ、たいへん、紅屋の一家はまっさおになった。  佐七は親の代から紅屋へ出入りし、かつはしじゅう、ひいきにあずかっているだいじなお店だから、おふくろのお仙からその話をきくと、さっと顔色かえたのもむりはない。 「親分」  佐七は人形とあだなをとった秀麗なおもてに、きりきりといなずまを走らせると、 「あっしがへその緒切って、はじめての捕物《とりもの》でございます。なわ張りちがいじゃございましょうが、どうか助けておくんなさいまし」 「ふむ、おもしろい。それでなにか心当たりがあるのかえ」 「まんざら、ねえこともございません。それじゃおっかあ、ちょっと紅屋さんへ、顔を出してくるぜ。親分、お供ねがいます」  外へでると、佐七はなにを思ったのか、矢立てと懐紙を取りだして、さらさらと、一筆書きながすと、つじ待ちのかごを呼びよせた。 「おめえ、ちょっとすまねえが、これを名あてのところへ届けてもらいてえ。それから、向こうのおかたをかごでお迎えしてくるんだ。いいかえ。わかったかえ。御用の筋だからいそいでくれ」 「へえ、承知いたしやした」  かごかきは、あて名を見ながらいっさんにかけだした。 「佐七、どこへ使いを出したんだ」 「なあに、ちょっと——親分、じゃ、まいりましょう」  と、さきに立ってあるきだしたが、ふと思いついたように、 「親分、紅屋へ顔出しするまえに、ちょっと見ていただきてえものがあるんで、この横町をまいりましょう」  吉兵衛には、佐七のすることがさっばりわからないが、なにしろ、日ごろぐうたらな佐七が、にわかにテキパキ、ことを運ぶのがうれしくてたまらない。  目を細くして、佐七のいうままに従っている。  やがて、佐七がふと立ちどまったのは、 「無念流剣道指南、山の井|数馬《かずま》」  と、看板のかかった町道場のまえである。 「親分、ちょっと武者窓から、けいこのもようをのぞいてまいりましょう」 「なんだえ、いまさら、やっとうのけいこをみたところが、しようがねえじゃないか」 「いえ、そうじゃございません。ほら、一段高いところにすわっていらっしゃるのが山の井数馬さま。親分、りっぱなかたじゃありませんか」  吉兵衛も、しかたなしに苦笑いしながらのぞいたが、みると、わかい連中が盛んにたたきあっているむこうに、道場のあるじ、山の井数馬が、いかめしく肩いからせてひかえている。まゆの濃い、ひげの黒い大男だ。 「親分、ちょっとあの先生の、ご紋を見てくださいまし」  いわれて吉兵衛、山の井数馬の羽織をみたが、そのとたん、思わずあっと叫んだ。山の井数馬の紋所は、世にもめずらしい鬼がわら。 「さあ、親分、まいりましょう」  佐七はすましたもので、武者窓のそばを離れると、先に立ってあるきだした。 「佐七、おい、どうしたんだ。それじゃ、ゆうべの辰源の客は、山の井数馬というあのお武家かえ」 「さあ、どうですか」  佐七は笑いながら、 「なんしろ、あの先生も変わりもんでさあ。近所のものが鬼がわらの先生とあだ名をしたのをいいことにして、紋所まで、じぶんから鬼がわらにかえてしまったんですよ。さあ、紅屋へまいりました」  吉兵衛がまだ、なにか聞きたそうにするのもかまわず、佐七は黒いのれんをおしわけると、ぐいと紅屋の帳場へ顔をのぞかせた。  証拠の羽織   ——佐七これより大いに売り出す 「おや、長吉どん、精が出るねえ、なにかえ。番頭さんはうちにいるかえ」 「はい、奥にいなさいますが、ちょっと取りこみがございまして」 「わかっているよ。お組さんの居どころはまだわからないのかい。ああ、お葉さん、しばらくでござんした」  奥からちょっと顔を出したお葉は、幼なじみの佐七の顔を見ると、さすがにうれしげに、 「おや、佐七つぁん、よくきておくれだったね、お組ちゃんのことできてくれたのかえ」 「そう、そう、お組坊がいなくなんなすったのだそうですね。さぞご心配でございましょう。しかし、きょうまいったのは、さようではございませんので。ちょっとお調べの筋があって、質ぐさを見せていただきにあがったのでございます」 「おや、そう」  お葉はむっとしたように、 「それなら、長どんに蔵へ案内してもらって、かってにお調べなさいな」  と、そのまま奥へすがたを消していった。 「長どん、すまないね」  吉兵衛に目くばせをした佐七は、長吉をさきに立てて蔵へはいっていくと、うず高くたなにつみあげた質ぐさを、あれかこれかと捜していたが、やがて、 「これだ」  と、ふろしき包みの結びめをとくと、 「親分、これはいかがでございます」  ひろげてみせた羽織を見て、吉兵衛は思わず息をのんだ。  まさしく鬼がわらの紋所。 「親分、ここにずきんもあります。ほら、こんなにぬれているところを見ると、ゆうべ着ていったものにちがいありませんねえ」 「佐七、それじゃ、ゆうべの侍は、この家のもんかえ」 「おおかた、そうだろうと思います。だが、まあ、表へまいりましょうか」  羽織とずきんをくるくるとふろしきに包んだ佐七は、蔵から外へ出たが、あたかもよし、そこへさっきのかご屋がかえってきた。 「お玉が池の親分、わざわざのお迎えは、いったいどういうご用でございます」  と、不安な面持ちでかごのたれをあげたのは、意外にも辰源の女中頭お市だった。 「あ、お市さん、ご苦労ご苦労。ちょっとおまえに用があったのだが、おいらが呼ぶまでここで待っていておくれ。親分、それじゃ奥へまいりましょう」  いましも山城屋夫婦に後家のお園、番頭の清兵衛が額をあつめて相談している奥座敷へ、ズイととおった人形佐七。 「ええ、みなさんえ、ちょっとお話があってお伺いいたしました。ご免くださいまし」 「ああ、これはお玉が池の親分、いま少しとりこみ中でございますが」  と、山城屋惣八がいうのを、 「はい、そのおとりこみのことで、まいりました。番頭さん、ちょっと顔をかしてくださいまし」 「へえ、わたしになにかご用で」 「そうさ、おまえさんでなければいけねえことなんで。ちょっとこの、羽織とずきんを着ておもらいしたいんで」  包みをといて取りだした羽織とずきんをみると、番頭の清兵衛、おもわずくちびるまでまっさおになった。 「親分、それはいったいどういうわけで」 「どういうわけもこういうわけもあるもんか。てまえがいやなら、この佐七が着せてやらあ。このしろ親分、ちょっと手を貸しておくんなさいまし」 「よし、きた」 「それはご無体な」  すっくと立ち上がった清兵衛が、やにわに店へ逃げ出そうとするのを、左右から抱きすくめた佐七と吉兵衛、むりやりに羽織とずきんを着せると、 「お市さん、お市さん、ちょっと、見ておくれ。ゆうべのお武家というのは、この男じゃなかったかい」  かけこんできたお市は、ひとめ清兵衛の顔を見ると、 「あ、このひとです。このひとです」  それを聞くと、清兵衛は、にわかに力も抜け果てて、がっくりと畳のうえに顔を伏せてしまった。 「おい、清兵衛、辰源の羽子板娘を殺したのはおまえだろう。お組はどこへやった。お組坊も殺してしまったのか」 「はい」  と、観念してしまった清兵衛は、がっくりと首をうなだれ、 「お組さんは、下谷総武寺裏の、お霜という、女衒《ぜげん》ばばあのうちに押しこめてございます」  といったが、それきりウームといううめき声、にわかにがばと畳につっぷしたので、あわてて抱き起こしてみると、舌かみ切って死んでいた。  番頭清兵衛の悪事の子細というのはこうなのだ。  亭主に死なれてから後家のお園は、いつしか番頭の清兵衛とひとめをしのぶ仲になっていたが、こうなると清兵衛もにわかに欲が出てきた。いっそ、お組を手に入れて、そっくりこの紅屋の家を横領しようという魂胆、それとなくお組に当たってみたが、むろんあいてはうんとはいわぬ。それのみか、ひそかに母との仲をかんづいていたお組は、いまのうちに切れてしまわねば、本郷の叔母さんに告げるという。こいつを告げ口されちゃもとも子もない話だから、にわかにお組を殺そうと思いたったが、それではじぶんに疑いがかかるおそれがある。  おりもよし、おなじ羽子板娘のお蓮が溺死《できし》したといううわさを聞いたので、初七日の晩に羽子板を送り、なんとなく、お蓮の死に疑いをかけておいて、さてそのあとでお蝶まで殺してしまったのだ。  そして、かんじんのお組は、女衒のお霜のもとへあずけ、いずれ、ゆっくりなぐさみものにでもしたあげく、殺してしまうつもりだったのだろうが、そこをひとあしさきに、人形佐七に見あらわされてしまったのである。 「あっしゃ、羽子板娘が順々に殺されるということを聞いたとき、すぐ胸に浮かんだのはお組さんのこと。すると、ふいに思い出したのは番頭の清兵衛のことで。あっしゃいつか清兵衛が、おかみさんとあいびきをしているとこを見たことがあるんで。ああ、後家とはいえ主人の女房と、ひとめをしのぶとは悪いやつだと、こう思うと、なんだか清兵衛のやつが怪しく思われてならねえんです。そこで、音羽まで出向いて、あの鬼がわらの紋のことを聞いたときにゃ、こいついよいよ清兵衛だと思いました。というのは、山の井先生というのは大酒のみで、飲みしろに困ると、羽織でもなんでも紅屋へ持っていくんです。だから、紅屋なら鬼がわらの羽織もあるわけ。それに、ずきんで顔をかくしていたなア、町人まげをかくすためと、まあ、こう思ったわけです。野郎、お蝶からさきに殺すつもりで、あのへんをうろついているうちに、ふとあるところで、大工の紋三郎が酒のうえから、あの鏡の合い図のことを口走ったのを聞いていやがったんでしょうね。それにしても、辰源の娘はかわいそうだったが、かねてごひいきにあずかっていた紅屋のお組坊を救い出すことができたので、あっしも肩身が広うございまさあ」  このしろ吉兵衛は、このあっぱれな初陣《ういじん》の功名に、おふくろのお仙といっしょに目を細くしてよろこんだが、これが人形佐七売り出しのてがら話。文化十二年|乙亥《きのとい》の春のことである。  紅屋の後家は、その後、尼になったという。     開《あ》かずの間  品川がえり   ——なぜ年寄りは若い者を信用しねえ  陽気もおいおい暖かくなってくると、女の子にとってなによりの楽しみは、桃の節句のひな祭り。  そのひな祭りもすんで、飾りたてたお内裏《だいり》さまや右大臣左大臣、三人官女や五人ばやし、さてはかわいい調度類を、また来年の春までと、しまうときほど女の子にとって寂しいことはないというが、そのひな祭りの翌朝のことである。  神田お玉が池は佐七のすまいの勝手口へおずおずとのぞけた、いやに横に平べったい顔を見て、 「あら、辰《たつ》つぁん、そんなところからどうしたというのさ。なぜ表へまわらないんだえ」  と、そう声をかけたのは佐七のおふくろのお仙である。 「えっへっへっ、おばさん、おはよう」 「あいよ、おはよう」  といってから、お仙は、きゅうに気がついたように、相手の顔を見直して、 「そういえば、辰つぁん、きょうはいやに早いじゃないか。まさか朝がえりじゃあるまいねえ」 「うえっへっへ、おばさん、お手の筋」  と、台所口にたって、額をたたきながらわらっているのは、まるで平家がにをおしつぶしたように、いやにえらの張った男だが、さすがに朝湯にでもはいってきたとみえて、額をてらてら光らせている。 「いやだよ、この子は……お手の筋もないもんだ。こないだも緑町の伯母《おば》さんがやってきて、さんざんこぼしていったよ。親はなくとも子は育つで、辰もやっとどうやら一人まえの小舟乗りになったかと思うと、遊びのほうは一人まえどころか、一人まえはだしもいいところだ。いや、お客さんに誘われたの、兄貴分のおごりだのとかで、しょっちゅうの朝がえり。そりゃひとさまにかわいがっていただくのはいいが、ほんとにあの子のいうとおりだろうか。遊びの金にはつまるならい、いまにひとさまのものに、手をかけるようなまねをしやアしないかと、わたしゃ気が気でないとこぼしていた。辰つぁん、おまえさん、ちかごろそんなに遊ぶのかえ」  と、年寄りのつねとして、お仙に愚痴っぽくたたみかけられて、 「いやだなあ、おばさん。あの伯母ときたひにゃ、取り越し苦労もいいとこで、針ほどのことでもあると、棒みてえにいうくせのあることくれえは、おばさんだって、よく知ってるはずじゃアありませんか」 「そりゃアまあ、そういえばそうだが……」 「でしょう。そりゃアあっしもお客さんや兄貴分にすすめられると、つい、これも役得かと……考えてみるとわれながら意地きたねえ話ですが、まさかひとさまのものに手をかけるような、おお、いやだ、そんなあさましいあっしじゃありませんのさ」  と、百方陳弁これつとめているのは、柳橋の船宿で船頭をやっている、辰五郎というわかい者。  両親をはやくうしなって、本所は緑町に住むお源という伯母にやしなわれたが、辰が十二、三のときになくなったおやじというのが、お玉が池に住んでいて左官職をやっていた。佐七とは幼友だちというわけだが、としは二つちがいの当年|二十歳《はたち》。  その後、柳橋の船宿井筒というのへ奉公して、いまでは一人まえの小舟乗り。平家がにをおしつぶしたような男っぷりは、おせじにもいいとはいえないが、人間にあいきょうがあって、だれにでもかわいがられる性分である。 「というわけですから、おばさん、緑町の伯母のいうことなど、いちいち取り合わねえでくださいよ。あっしもこれでまんざらバカじゃありませんのさ。それより、おばさん、親分は……?」 「辰つぁん、親分ってだれのことさ」 「あれ、わかってるじゃアありませんか。こちらの佐七親分ですよ」 「あれまあ、あの子が親分かえ」 「おっかさん、それがいけねえ。おっかさんの目からみれば、いつまでも子どもにみえるのかしれませんが、この春の羽子板娘の一件以来、お玉が池の人形佐七といえば、たいしたひょうばんじゃありませんか。ゆうべも高輪《たかなわ》のほうで、大捕物《おおとりもの》があったそうで」 「あれ、辰つぁん、おまえさんはどうしてそんなことを……?」 「いや、じつは……」  辰は小鬢《こびん》をかきながら、 「これをいうとまた、おっかさんにしかられるかもしれませんが、あっしはけさは品川がえりなんです。その品川の朝ぶろできいたところでは、ゆうべ高輪で大捕物があったが、またしてもお玉が池は人形佐七親分の大てがら、これじゃ江戸じゅうの岡《おか》っ引《ぴ》きかたなしだと、いやもう、たいしたひょうばんですぜ」 「あれ、まあ、ゆうべそんなことがあったのかえ」 「あれ、おっかさんはご存じなかったんで?」 「だって、あの子ったら、ゆうべ真夜中過ぎにかえってくるなり、なんにもいわずに寝ちまったんだよ。それに、少し酒のにおいもさせていたから、また、どこかで遊びほうけて、きまりが悪いんだろうと、そおウっとしておいたんだが、そんなら、ゆうべあの子がそんなてがらを……?」  と、はじめて聞くせがれのてがらに、お仙ははやもうおろおろ声。 「いやだ、いやだ。どうしてどこの年寄りも、こう若いもんを信用しねえんでしょうねえ。なんでも、ゆうべの捕物は……」  と、辰が調子にのって、しかたばなしでまくしたてていると、となりのへやから声あり、 「静かにしねえか、辰つぁん。うるさくて寝てもいられねえ。まあ、こっちへ上がんねえな」  と、どうやら佐七親分は寝床のなかで大いにテレているらしい。  ひな祭りの夜   ——去年とおなじく女郎が血を吐き  それから四半刻《しはんとき》(半時間)ほどのちのこと、佐七と辰五郎は茶の間で、お仙の心づくしの朝飯の膳《ぜん》についている。 「それで、辰つぁんのゆうべのお楽しみは品川だって? ずいぶん遠っ走りをしたものじゃないか」  朝がえりときいて、お仙の心づくしの生卵をすすっている辰をみながら、佐七がからかいがおにいえば、 「いえ、それがね、友だちの野郎が、なじみの妓《こ》がいるからいこうてんで、ひっぱっていかれたんですが、そうそう、それについて親分にお願いの筋があってやってきたんです」 「はてな。改まってどういうことだえ。足を出して、馬でもひっぱってきたというんじゃあるめえな。それならご免こうむるよ。うちじゃ、おふくろがやかましいから」 「いえ、そんなんじゃアありませんのさ。親分は品川に福島屋といううちがあるのを、ご存じじゃありませんか」 「福島屋なら品川でも大店だから、名まえくらいは知ってるが、それがどうかしたのかえ」 「親分、じつはゆうべそのうちで、変なことがあったんです」 「おっと、辰つぁん、その親分はよそうじゃねえか。幼なじみのおまえとおれだ、佐七つぁんとか、せめて兄貴ぐれえでいいじゃないか」 「いいえ、おまえさんはもう親分ですよ。だれがなんといおうとも、もうおまえさんは押しもおされもせぬお玉が池の親分ですよ。その親分を見込んで、お願いの筋があってやってきたんですが、ゆうべ福島屋で、女郎が毒をのんだんです」 「えっ?」 「それだけなら、べつに珍しかアありませんが、そのへやというのが、去年も女郎がひとり毒をのんだへやで、福島屋ではそれいらい、あかずの間ってことにしてあったんです」 「あかずの間……?」  佐七はおもわず目をみはって、われにもなく、辰の話につりこまれた。  それは文化十二年の春三月、「羽子板娘」の一件で、佐七がパッと売りだした年のことである。したがって、佐七はまだ、おふくろのお仙とふたり暮らしの時分のことだった。  佐七は幼なじみの辰五郎が品川がえりときいたので、なにかとからかってやろうと思っていたところが、案に相違して、なんだか意味ありそうな話に、ついひきずりこまれたというかたちで、 「辰つぁん、なんだかおもしろそうな話だが、それじゃひとつ聞かせてもらおうか」  とおいでなすったから、辰は内心しめたとばかりにひざのりだし、 「去年そのへやは、かしくといって、そのじぶん、福島屋ずいいちの売れっ妓のへやだったそうです」  かしくというのは、そのじぶん、二十二の勤めざかり、すこし内気でさびしいのを難として、器量気だても申しぶんなく、客あしらいもよかったから、いつも板頭《いたがしら》か二枚めを張りとおしていたそうである。  そのかしくが、とつぜん、じぶんでのんだか、ひとにのまされたか、毒にあたって死んだのである。しかも、そのころかしくには、よい客がついて、すでに身請けもすみ、はなばなしく引き祝いもやって、これからしあわせがこようという、さて、その晩のことである、かしくが毒をのんで死んだのは……。 「それが、親分、去年のゆうべのことで、かしくのへやには、かわいそうに、客からおくられたおひなさまが、きれいに飾ってあったそうです」 「はてな。それじゃ、かしくという女郎は、その身請けをいやがっていたのか」 「とんでもない。それがそうじゃなかったから、そのじぶん、いろいろ詮議《せんぎ》がむずかしかったそうですが、けっきょく、わけがわからずじまい、うやむやになっちまったんだそうで。それで、福島屋ではそれいらい、そこをあかずの間ってことにしておいたんだそうですが……」 「そのへやで、ゆうべまた、女郎が毒をのんで死んだというんだな」 「へえ」 「それじゃ、あかずの間じゃねえじゃねえか」 「それがね、きのうはかしくの命日ですから、年にいちどあかずの間をひらいて、かたみのおひなさまをかざり、仏の冥福《めいふく》を、まあ、祈ってやったんですね。それで、あかずの間もひらいてたわけですが、ところがけさになってみると、そのへやで女郎が毒をのんで死んでいる……」 「それでなにか、そいつ、かしくにゆかりの女か」 「ところが、そうじゃアねえからおかしいんです。ゆうべ毒をのんで死んだのは、お新といって、去年の暮れかかえられたばかりの新参者で、としはわけえがツラがまずくて、あまり売れない妓だったそうです」 「なんだ、それじゃそいつ、売れねえのを気にやんで、世をはかなんだんじゃねえのか」 「そう考えられねえこともありませんが、それじゃアなぜ、かしくのへやへいって死んだんです。それに、そいつ、とぎすましたかみそりを持ってたんですぜ」 「そりゃアおおかた、のどをつこうか、毒をのもうかと思案をしたあげく、のどをつくのはいたいから、ちっとでも楽な毒のほうをと……」 「あっはっは、死ぬのに楽も苦もあったもんじゃありませんや。それに、そればかりじゃありません。お新のそばにはちょうしが一本、杯がふたつころがっていたんです。だから、お新は死ぬまえに、だれかと酒をくみかわしていたにちがいねえ。まだそのほかにも、いろいろおかしなことがあるんですがね」 「なんだい、そのおかしなことというのは」 「いえ、それというのがね、去年かしくを身請けしようとしていた……いや、じっさいはもう、身請けがすんでいたんですが、その男というのは、沼津でかなり手びろくタバコ屋をやっている駿河屋《するがや》源七という男なんですが、そいつがゆうべもきてたんですよ」 「なんだ、それじゃ身請けの客というのが、かしくが死んだのちも、福島屋へかよっているのか」 「そうなんです。なんでも、ふた月にいちどくらいのわりあいで商用で江戸へ出てくるんだそうで、そのつど福島屋へとまって、かしくを買いなじんだあげくのはてが、身請け話にまでこぎつけたんですね。ところが、そいつ、かしくが死んでからのちも、江戸へくるごとに福島屋へよって、かしくの思い出話かなんかやってたのが、いつかかしくの朋輩《ほうばい》女郎の、お園というのになじんだんですね。それで、いまでも福島屋へきてるんですが、ゆうべはことに、かしくの命日ですから……」 「お園というのはどういう女だ」 「なかなかのべっぴんですぜ。宿場の飯盛り女にゃもったいないくらいでさ。二十二ですがね。もっとも、かしくもべっぴんだったそうです」 「それじゃ、かしくが生きてるころは、席争いがたいへんだったろう」 「へえ、親分のおっしゃるとおりで。かしくが板頭ならお園は二枚め。お園が板頭のときにゃアかしくが二枚めというわけですが、それでも当人どうしは争いもせず、しごく仲よく、むつみあっていたそうです。もっとも、腹のなかまではわかりませんがね」  佐七はだまって考えていたが、 「辰つぁん、それでいったい、おいらにどうしろというんだえ」 「だからさ、親分にひとつご出馬ねがいてえというんで。いや、親分のおっしゃりたいことはわかってます。品川は八州代官の支配地、江戸の町方とは支配ちがいだとおっしゃりてえんでしょ。だからさ、あっしの連れという触れこみで……おっと、おっかさん、みなまでのたまうべからず、親分に女を抱かせるようなまねはしません。じつは、ゆうべのあっしの女はお竹というんですが、あっしがついうっかり、親分のことをしゃべったんです。そしたら、そいつがお内所にきこえて、ぜひお願いしてえといってるんです。だからさあ、親分、ひとつ品川まで足をのばしておくんなさいよ」  そばにいるお仙の顔色を気にしながらも、辰はとうとう本音を吐いた。  かしくの最期《さいご》   ——人にのまされたか自分でのんだか  牛にひかれて善光寺もうでというわけではないが、とうとう辰にひっぱり出されて、佐七が品川まで出向いていったのは、その日もそろそろ暮れそめた七ツ(四時)ごろのことで、むろんそのころには、代官所の役人も引きあげたあとで、かたのごとく、検視もすんでいた。  佐七が顔をのぞけると、あらかじめ辰が吹いておいたとみえて、すぐに奥へとおされた。  福島屋の主人は喜兵衛《きへえ》といって、女郎屋の亭主とは思えぬ柔和な人体《にんてい》。女房のお福というのも、人のよさそうな女であった。 「お名まえはかねてからうけたまわっております。このたびは遠路ご苦労でございました」 「いや、なに、こちらにも支配のかたがいらっしゃいますから、あっしなどが顔出しするまでもねえと思ったんですが、このひとがゆうべお世話になりましたそうで、いわばかかりあいでございますから……よけいなおせっかいといわれるのを承知のうえで、ちょっとお伺いいたしました」 「とんでもございません。じつは、けさから弱りきっているところでございまして……」  と、喜兵衛は渋面つくってため息を吐《つ》いた。 「と、おっしゃいますと……?」 「いやね、こちらの兄さんは早めに、お引き取りになったからよろしいようなものの、そのあとから、お代官所のお役人衆がご出張なさいまして、居合わせた、お客さまぜんぶ、足止めということになりましたんで」 「えっ、それじゃ、ゆうべお泊まりになったお客さん、ぜんぶ禁足でございますか」 「へえ、この一件らちがあくまでは、だれもこのうち一歩たりとも出してはならぬと、それはそれはきついお申し渡しで……」 「親分さん、助けてください。これでは商売になるならぬはべつとして、お客さまに申しわけございません」  と、喜兵衛夫婦が青息吐息なのもむりはない。 「なるほど、そううかがっちゃ、一刻もはやくらちをあけにゃなりませんが、その後なにかかわったことでも……」 「さあ、それでございますよ」  喜兵衛はひざをのりだして、 「じつは、あれからいろいろ妙なことがわかってまいりまして、わたしも女房もきょうはいちんち、肝をつぶしているところで。もうこうなっちゃ、この一件、代官所のおさたがあろうがなかろうが、底の底まで洗っていただこうと、いまも女房と話しあっていたところでございます」 「妙なことというのは……?」 「まずだいいちに、ゆうべお新を殺した毒ですが、それがあなた、去年かしくを殺した毒と、おなじものなんだそうで。そればかりじゃございません、なんと驚くじゃありませんか、ゆうべ死んだお新は、なんと、まあ、かしくの妹だったんです」  佐七はギョッとして、おもわず辰と顔を見合わせた。辰は目をシロクロさせている。 「それは、また……そしてそのことを、きょうまで、ご存じじゃなかったんですか」 「はい、ちっとも」  お新は川崎《かわさき》在の百姓、杢兵衛《もくべえ》の娘ということで、去年の暮れ、福島屋に住みこんできた。ところがけさ、ああいうことがあったので、杢兵衛はすぐとんできたが、その口からはじめて、お新の素姓がわかったのである。 「杢兵衛はお新の親戚《しんせき》になるそうですが、その娘として住みこむとき、ほんとの素姓はいってくれるなと、お新はかたく、杢兵衛に口止めをしておいたそうです」 「それじゃ、姉がここにいるあいだに、お新はいちどもきたことはないんですね」 「はい。もっとも、かしくに妹がひとりあることは聞いていましたが、堅気のところに奉公しているから、こういうところへ呼びたくないと、かしくはいつもいっていました」 「いったい、かしくの親というのは……?」 「もと、大森で医者をしていたんです。それが急になくなって、いろいろ困るところから、かしくが身売りをすることになったんです。おふくろは、お常さんといってこれは、ちょくちょく、かしくのところへきていました。かしくにとっちゃまま母だそうですが、とてもよくできたひとで、いつも、かしくにすまない、すまないといって泣いていましたっけ。杢兵衛に聞くと、去年の夏かしくが死んでから、四ヵ月ほどして、卒中かなんかで死んだそうですがね」 「すると、かしくとお新は……?」 「腹ちがいだったそうです。お新はお常さんのほんとの娘だったんですね」  佐七はだまって考えていたが、 「だんな、かしくが死んだときには、詮議《せんぎ》がむずかしかったそうですが、どうでしょう、そのときのもようをおうかがいできませんか」  喜兵衛は女房と顔を見合わせていたが、 「承知しました。いまさらかくすことはございません。しかし、それには、かしくと駿河屋さんとのなれそめからお話ししなければ、わからないんですが……」  と、そう前置きをしておいて、喜兵衛が語りだしたところによると、こうである。  駿河屋源七が江戸からかえりに、はじめて福島屋へ泊まったのは、いまからざっと二年まえのことだった。いったい、江戸を早立ちして、東海道の旅をしようというものには、夜のうちに品川までのして、そこで一泊するのがいちばん便利とされていた。  女郎屋ならば、いくら早くても起こしてくれるからである。  そのとき、駿河屋に出たのが、かしくであった。駿河屋はかしくのもてなしに大満悦だったが、そのせいかどうか、翌朝早立ちしたかれは、たいへんなものを忘れていった。百両あまりはいった胴巻きを、かしくのへやに置きわすれていったのである。  駿河屋を送り出してまもなく、それに気がついたかしくは、おどろいてすぐ若いものに胴巻きを持たせて、あとを追わせた。わかいものは川崎のちょっと手前で、あおくなって引き返してくる駿河屋にあってそれをわたしたが、そのときの駿河屋のよろこびはどんなだったろう。  たかがひと晩の客である。そんなものなかったと、いわれてもしかたのないところを、わざわざむこうから、あと追っかけてとどけてくれたのだから、駿河屋の感謝は非常なものだった。 「それからというものは、駿河屋さんは江戸へおいでになるたびに、きっとかしくのところへおみえになりました。こうして一年ほどなじみをかさねているうちに、駿河屋さんのおかみさんがなくなられたので、かしくをのち添いということになったんです」 「それじゃ、本妻ナすね」 「そうなんです。かしくもそれでよろこびますし、わたしとしても、家のためになってくれた女ですから、いろいろ、おふたりのために計らったんです。そして、忘れもしない去年のひな祭りに、身請けもすみ、引き祝いもやりまして、ふたりはいったん引けましたが、おそくなって駿河屋さんは、江戸へお立ちになったんです。いえ、それはまえからの約束で、江戸で二、三日用たしをして、そのかえりに、かしくといっしょに、沼津へ立とうということになっておりました」 「あ、ちょっと待ってください。そうなると、かしくのおふくろや妹はどうなるんで」 「それはあとから、呼びむかえるということになっていたんです。お常さんはその日、ここへ別れにきましたよ。駿河屋さんからそうとうのものを、もらってかえったようでした」 「なるほど。それで、駿河屋さんが江戸へたって……?」 「かしくは駿河屋さんを送り出して、ひとりへやへかえってねたんですが、すると真夜中ごろになって、かしくのへやからけたたましく、ひとを呼ぶ声がきこえるんです。それでみんなが駆けつけると、かしくはお園の胸にだかれて死んでいたんです。口からガーッと赤いものを吐いて……」  異母姉妹   ——お園にそれほどの義理はない  喜兵衛はほっとため息をついて、 「お園はほんとにかわいそうでした。なんでも、廊下をとおりかかると、かしくのへやからうめき声がきこえるので、ふしぎにおもってはいってみると、かしくが寝床から身をのりだし、畳のケバをかきむしっていたそうです。それで、びっくりして介抱しているうちに、赤いものを吐いたので、きもをつぶしてひとを呼んだんですが、なにしろ、かしくのそばにいたのはあの妓《こ》だけですから、そのじぶん、ずいぶん変な目でみられて、取り調べの風当たりも、いちばんきつうございました」 「しかし、それでもぶじ言い開きが、できたことはできたんですね」 「言い開きにもなんにも、あの妓がかしくを殺す道理がありませんもの。世間では席争いのなんのといいますが、当人たちはきょうだいみたいにむつみあって、だいじなことは打ち明けて、相談しあっていたようでした。駿河屋さんとのことだって、お園はわがことのようによろこんでいたんです」 「その駿河屋さんは、ちかごろ、お園の客になってるそうじゃありませんか」 「それはわたしがお勧めしたんです。かしくがああなってからも、江戸へこられるたびにお寄りになって、かしくのことをいっては泣かれる。あまり寂しそうでおきのどくですから、かしくとおもってかわいがってやってくださいと、お園を出すことにしたんです。それでもなかなか、かしくのことは忘れかねたらしいんですが、お園のしむけがよいのか、ちかごろやっと元気になられたと思ったのに、またこんなことになってしまって……」 「またこんなことになったとおっしゃいますが、それじゃこんどの一件にも、お園がなにか関係してるとお考えですか」 「とんでもない。そんなんじゃアありませんが、お新がかしくの妹とわかると、世間でまた、どんなことをいいだすかと……」  喜兵衛は顔をくもらせた。 「お園さんはどうしてます」 「けさは頭が重いといって寝たっきりで……かわいそうに、むりもございません」 「駿河屋さんはゆうべお泊まりだったそうだが」 「はい。でも、けさ早くたって江戸へいかれました。代官所からお役人がおみえになるまえに……定宿《じょうやど》は馬喰町《ばくろうちょう》の相模屋《さがみや》さんですから、そこへおいでになれば、いつでも……まだ四、五日、江戸へご滞在だそうですから」 「ところで、ゆうべお新に客は……?」 「はい、高輪の牛町の若い衆で、権次《ごんじ》さんというのがひとり」 「お新のなじみですか」 「ええ、まあ、二、三度おみえになりましたか」 「権次はいったいどういってるんです、お新の顔がみえなかったのを……」 「いえ、宵《よい》にちょっとお新は顔を出したそうです。どうせこちとらは振られつけてるから、なんともおもわず寝てしまったといってるんですが、日ごろはなかなか、ちょっとでも女がおそいと、とてもやかましいかたなんですが……とにかく、高輪の番屋へつれていかれたようですよ」  佐七はだまって考えていたが、 「それじゃ、お新と、それからあかずの間をみせてもらいましょうか」 「はい、どうぞ。おまえさんがおみえになるかもしれないというので、あかずの間はそのままにしてございます。ご案内しましょう」  お新は北まくらに寝かされて、まくらもとには、さかさびょうぶに線香も立っている。そのそばにしょんぼりすわっていた五十男が、佐七の顔をみるとあわててすわりなおした。  なるほど、辰のいうとおり、お新はあまりいただけるご面相ではない。髪がちぢれて、鼻がひくく、それでも色の白いのがとりえであった。 「杢兵衛さんですね」  佐七がちょっと仏をおがんで、かたわらの男に声をかけると、いかにも実直そうなそのあいては、どぎまぎと度をうしないながら、 「はい、あの、さようで……」 「おまえさんにちょっと聞きてえんだが、お新ちゃんはどうして、かしくの妹だってことをかくして、ここの女郎になったんです」 「はい、あの、わたくしにもよく、この娘《こ》の了見がわかりませんので」 「杢兵衛さん」  佐七はじっと顔をみて、 「お新ちゃんはひょっとすると、姉のかたきを討つつもりじゃなかったんですか、去年なくなったかしくさんのかたきを……」  杢兵衛はどきっとしたように、肩をふるわせたが、そのまま黙ってうなだれた。 「お新ちゃんはだれを疑っていたんですね。かくさずにいっておくんなさい。なにかそのことについて、いってやアしませんでしたか」 「はい、あの、それがわかってるくらいなら、すぐに乗りこんでかたきを討つんだが、わからないから、女郎になって住み込んで、様子をさぐるんだと、そう申しまして……」  喜兵衛は気味わるそうにまゆをひそめる。 「お新ちゃんとかしくは、腹ちがいだということだが、それでも仲はよかったんですね」 「それはもう、かしくがとても妹をかわいがって、こちらさんへご奉公しているあいだも、それはそれはよくしてやったもんですから、お新も姉を慕いまして……だから、その姉がああなったときにも、とてもくやしがって、きっとだれかのねたみで毒を盛られたにちがいないと……お新は姉とちがって、とても勝ち気なもんですから」 「お新はなにか、お園のことをいってヤアしませんでしたか」  お園の名をきくと、杢兵衛はなぜかどぎまぎしたが、やがて居ずまいをなおすと、 「そのお園さんについちゃ、ひとつの話があるんです。かしくがなくなってからというもの、お常さんはとても困っていたんです。そこへ病気になったりしたもんですから、なおのこと、とてもお新のお給金くらいでは追いつきゃアしません。それをどうやりくりするのか、ともかくやっているので、親戚でもふしぎにおもっておりますと、去年なくなるまぎわに、お常さんが、わたくしとお新にうちあけたところによると、なんと、お常さんはお園さんにみつがれていたんだそうで。お常さんはそれをいうときには、ボロボロ涙をながして、だからくれぐれも、お園さんのご恩をわすれちゃならぬと、かたくいいのこしていったんです」  このことは、亭主の喜兵衛も初耳だったとみえて、目をまるくしていたが、同時にかえってその顔色は、目にみえてわるくなった。  なるほど、杢兵衛の話をそのままうけとると、たしかにひとつの美談だが、しかし、わるく邪推すると、お園になにかうしろ暗いところがあって、その罪ほろぼしに、お常のめんどうをみていたとも考えられる。お園にそれほどの義理はないはずなのだ。 「いや、ありがとう。それじゃせいぜい回向《えこう》をしておやんなせえ。だんな、それじゃあかずの間というのを、みせていただきましょうか」 「ご案内しましょう」  喜兵衛はあおい顔をしてさきに立った。  信玄袋の中   ——二粒の丸薬におそろしい毒薬が  もとかしくのへやだったあかずの間は、裏二階のすみにあって、三畳と六畳の二間つづき。その六畳にはまだひながかざってあった。 「お新はこれ、ここのところで、血を吐いて死んでおりましたんで……」  喜兵衛の指さすのは、ひな壇のすぐまえである。そこには辰もいったとおり、おちょうしが一本、杯がふたつころがっている。おちょうしをふってみると、八分めくらい酒があるらしい。ここでお新がだれかと酒を飲んだとしても、せいぜい杯にいっぱいずつくらいのものだったろう。  杯のそばにかみそりが一丁、冷たいいろを放っている。 「このかみそりは……?」 「お新のものでございます」  佐七は無言のままひな壇をながめた。べつにりっぱなひなでもないが、それでもお内裏さまから右大臣左大臣、三人官女、五人ばやしから仕丁《しちょう》とそろって、金まき絵の諸道具もかわいかった。  佐七はなんとなくそのひなに心をひかれて、上から下へとまじまじ見ていたが、そのうちに、たんすのひきだしがひとつ、少しひらいているのに気がついた。のぞいてみると、なにかはいっている。ひきだしをひらいて取り出してみると、それはどんすでつくった、まるで小人が持つような、小さな信玄袋だった。 「おや、そんなものがどうしてそこに……」  喜兵衛はびっくりしたようにまゆをひそめる。 「見おぼえがございますか」 「はい、それは大森の宝屋で売り出している、奇妙丹《きみょううたん》の袋です。かしくはしゃく持ちでしたが、この薬がいちばんよくあうと、持薬に持っておりましたが、それがどうしてそんなところに……」  そのころ、大森の宝屋で売り出していた信玄袋いりの奇妙丹は有名な薬で、上りくだりの旅人は、大森をとおると、かならず宝屋へ立ちよって、小さな信玄袋を買ったものである。  佐七が袋をひらいてみると、なかには紙袋にはいった丸薬が六粒。 「だんな、これはあっしがおあずかりいたします」  と、佐七はそれをふところにいれると、 「それでは、ついでのことに、ちょっとお園さんに会っていきたいんですが」 「はい、では、どうぞ……」  お園のへやも裏二階にあったが、あかずの間とはちょうど反対のすみである。  喜兵衛はふたりを待たせておいて、へやのなかへはいっていったが、そのとき、鼻のひくい女郎がはしご段から顔を出して、 「にいさん、ちょっと、ちょっと」  と、手招きする。 「よせやい、なんだい、お竹。親分がいらっしゃるじゃねえか」  さすがの辰も、すっかりてれかげんである。 「そんなんじゃないのよ。ちょっとにいさんに見てもらいたいもんがあるんだからさ」 「おい、辰つぁん、おまえのおのろけが話があるってよ。遠慮することはねえからいってやれ」 「なんだよ、お竹、話があるなら早くしろ。いってえどんな話だよう」  辰はわざとつっけんどんに当たりながら、それでもうれしそうに女のあとにくっついて、いっしょにはしご段をおりていった。  そこへ喜兵衛が出てきて、 「さあ、どうぞ。気分がわるいといってふせっておりますものですから、そのおつもりで……おや、もうひとりのにいさんは?」 「なに、小便にでもいったんでしょう」  お園ははでな夜具のうえに、緋《ひ》の長じゅばんのうえから打ち掛けを羽織ってすわっていた。 「ご免くださいまし、親分さん。少しからだのかげんが悪いものですから、こんなうまいなりをして……このまま失礼させていただきます」  なるほど、お園はよい器量だ。ぱっと明るい顔だちで、性質も陽気らしく思われるのに、きょうは妙に青ざめて、ひとみの色もうわずっている。むりもないこととも思われるが、ほつれ毛が二、三本、ほおにちっているのも哀れふかく、いろっぽい。 「いや、気分の悪いところを起こしてすまねえ。さっそくだが、おまえ、ゆうべ死んだお新が、かしくの妹ってことを知らなかったかえ」 「いいえ、ちっとも……さっき、お竹さんから聞いて、びっくりしてしまいました。なんでかくしていたんでしょうねえ」  お園はうつむいたまま、ひくい声でこたえる。  佐七はじっとその顔色をよみながら、 「お園さん、いま聞きゃア、おまえ、かしくのおふくろに、仕送りをしてたってねえ。そりゃいってえ、どういうわけだえ」  お園ははっと顔をあげると、喜兵衛の顔色をうかがいながら、 「まあ、それじゃ、やっぱり杢兵衛さんがしゃべったんですね。いっちゃいけないと、さっきあれほど念をおしておいたのに……」 「おまえ、杢兵衛にあったのか」  喜兵衛の声には不安のひびきがこもっている。 「はい、さっきあいさつにきましたので……」 「いや、そんなことはどうでもいいが、おまえがお常に仕送りをしていたわけというのは……それをひとつ聞こうじゃねえか」 「はい、あの、かしくねえさんの遺言でしたので……」  喜兵衛の顔にはまた不安の色が濃くなってくる。 「遺言……? しかし、あの節、おまえはそんなことをいやアしなかったが……」 「はい、あの、べつにたいしたことでもないと思いましたので……しかしねえさんは、妹やおっかさんのことを、くれぐれも頼むと……」  ほろりと落ちるひとしずく、お園はあわてて涙を指でおさえている。  佐七はその顔から目をはなさず、 「そのとき、かしくはもっとほかに、なにかいやアしなかったかえ」 「いいえ、なんにも……」  と、打ち消したものの、佐七はしかし、その語尾がかすかにふるえているのを、聞きのがさなかった。 「ときに、ゆうべのお新のことだが、それについて、おまえなにか知っちゃアいねえか」  お園は肩をすくめたまま、力なく首を左右にふった。佐七はまじまじとその顔色をみつめていたのち、 「いや、気分の悪いところをすまなかった。それじゃ、まあ、だいじにしねえ」  お園のへやを出ると、あいかわらず、あちこちから、足止めくった客の苦情がきこえてくる。福島屋の迷惑もさこそと思われたが、まさかそう簡単にことは運ばない。  いずれまた出直してまいりますと、それからまもなく福島屋を出ると、 「おい、辰つぁん、おまえのおのろけの話というのはなんだったんだい」 「親分、それがちょっと妙なんです」  と、辰は声をひそめるようにして、 「お竹のかわいがっていたねこが、きのうの昼ごろからみえなくなったんだそうで。それで、お竹がやっきとなって捜していたところ、さっき縁の下で、血を吐いて死んでるのがみつかったんです」 「ねこが血を吐いたって……?」 「そうなんです。あっしも見ましたが、なんだかお新の死にかたに似てるような気がして、ゾーッとしましたがね」 「ねこはきのうの昼ごろから、みえなくなったというんだな。いってえ、それはどういうことかな」  その日、かえりに高輪の番屋へよってみたが、お新の客の権次はもうかえされて、そこにはいなかった。ついでに権次の家をきいて、牛町のほうへまわったが、そこにも権次はいなかった。  佐七はさらに馬喰町の相模屋へよってみたが、駿河屋も商用で宿をでたきりで、かえっていなかった。  佐七はしばらく待ってみたが、なかなかかえりそうにないので、あきらめてそこをでると、下谷長者町の良庵《りょうあん》さんのところへよって、信玄袋をあずけてかえった。  良庵さんは有名な医者だが、その夜の五ツ(八時)ごろ、佐七のところへとどいた報告によると、信玄袋のなかにあった丸薬六粒のうち、ふた粒のなかに、おそろしい毒が、仕込まれているということだった。  佐七はその報告を読むとにっこり笑い、それまでひきとめておいた辰をうながすと、ふたたび品川へとってかえした。  ふたつの杯   ——お園、おまえはようしんぼうしたなあ  その夜、佐七が辰をひきつれ、福島屋へとってかえしたのは、もうかれこれ四ツ(十時)過ぎ。福島屋は内も外も、はちの巣をつついたような騒ぎだった。  朝から足止めをくらった連中がブーブー、ガヤガヤ。なかにはむりにかえろうとする客を、男衆や出入りの鳶頭《かしら》が必死となってなだめているのを、表に立ったやじうまが、わいわいはやしたてているのだから、福島屋のまわりは鼎《かなえ》の沸くような騒ぎである。  そのやじうまをかきわけて、佐七が辰とともにのれんのしたから顔をのぞけると、ちょうどそこに居合わせた胴抜きすがたのお竹がみつけて、 「あら、にいさん、よかったわ。よいところへきておくれだったわねえ」 「お竹、なにかあったのかい」 「さあ、それがねえ、にいさん」  お竹がなにかいいかけるのを、若い者がそでを引きとめ、 「お竹さん、お竹さん」 「なに、かまうもんか。あんな小僧っ子にゆすられちゃたまらないよ。それに、こちらの親分は、血も涙もあるおかたとやら。悪いようにはなさるまいよ」  佐七はわらいながら、 「あっはっは、お竹、いやにおだてるが、なにかあったのかい。駿河屋のだんながきていなさるんだろ」 「はい、その駿河屋のだんなのあとをつけて、牛町の権次がやってきたんです。そして、お園さんのへやへ、だんなやおかみさんを呼びつけて……」 「お竹さん、お竹さん、いけないよ。だんなが、だれもきちゃアいけないと、きつうおっしゃったんだから」 「兄い、心配するな。おれがいいようにしてやる。辰つぁん、おまえはこの妓《こ》としんみり話がしてえんだろ。権次のやつはおれひとりでたくさんだ。おめえははええとこ、この妓と引けてこい」 「おっと、ありがてえ。へっへっへ、だからあっしゃ親分が好きさ。さあお竹、いこうかねえ」  大納まりにおさまった辰をのこして、佐七が二階へあがると、お園のへやから、お園のすすり泣きの声にまじって、権次のすごんだ声がきこえてくる。  佐七はしばらく障子の外に立って、権次のならべるせりふをきいていたが、それはだいたいこうもあろうかと、佐七が想像してきたとおりであった。  佐七はよいまを見計らって、がらりと障子をひらくと、 「おい、権次というのはおまえか、おつにすごんでみせるじゃねえか」  権次はどきっとしたらしかったが、すぐ鼻のさきでせせら笑うと、 「だんな、これでいいんですか。こっちはなるべく穏便にはかろうと思っていたんだが、これじゃなにもかもぶちこわしですぜ」  佐七のすがたをみて、喜兵衛夫婦も顔見合わせて、いかにも迷惑そうである。  駿河屋はあおい顔して、しきりにくちびるをかんでいる。 「ぶっこわしか、ぶっこわしでねえか、おれがさばく。おまえたちの口出しする幕じゃねえ」  佐七はそこへすわると、 「もし、おまえさんが駿河屋さんか。なるほど、これじゃ女のほうからほれるもむりはねえ。あっしゃ、もっと年寄りかと思いましたよ」  駿河屋源七は三十五、六の男盛り、色の小白い、ゆったりとしたいいだんなである。  佐七はお園のほうへ向きなおり、 「お園さん、おまえはなぜほんとのことをいわねえんだ。おまえがかくしているから、こんな小僧にゆすられるんだ。お新が死にゃ、だれにもはばかることはねえ。かしくを殺したのはだれだったのか、かまうことはねえから、みんなぶちまけてしまいねえ」 「あれ、それじゃ親分さんはご存じで……」 「知ってるさ。お常は死ぬとき、おまえに仕送りされてたことを打ち明けて、生涯《しょうがい》恩を忘れるなと、お新にいったというじゃねえか。ところで、かしく殺しの疑いを、いちばん濃くうけたのはおまえだ。そのおまえが仕送りすれば、お常はいよいよおまえを疑うのがあたりまえ。それをすこしも疑わなかったというのは、お常はかしく殺しの下手人を知ってたからだ」 「親分、そ、そして、その下手人とは?」 「だんな、お常でしたよ」 「な、な、なんですって!」 「おまえさんたちがおどろくのも無理はねえが、お常はかしくに別れにきたとき、かしくの持薬の奇妙丹を持ってきたが、そのなかに毒が仕込んであったんです。夜中にかしくはさしこんだので、なにもしらずにそれを飲んだがこの世のなごりでしたよ」 「そ、そして、お園はそれを知っていて……」 「だんな、すみません。このことばかりは、ひとにいってくれるな、こんなことがわかったら、お新が生きちゃいまいからと、死ぬまぎわにねえさんから、くれぐれも頼まれましたので……」  お園はわっと泣き伏した。 「それで、おまえはひとの来ぬまに、あわてて薬を、ひなのたんすにかくしたんだね」  お園は泣きふしたままうなずいた。 「しかし、お新がどうしてそれをみつけたんだ」 「それはあたしが悪かったんです。一年ぶりにおひなさまが出たので、あの薬はまだあるかしらと、そっとたんすをひらいてみたんです。薬はまだありました。そのとき、わたしはあおくなってふるえていました。それをお新ちゃんが見ていたらしいんです」 「なるほど、それで、あとから薬を取りだし、昼間、お竹のねこでためしたところが、ころりとねこが死んだので、いよいよおまえを疑ったんだな」  お園は泣きじゃくりしながらうなずいた。 「そこで、おまえを夜中に呼びだし、かみそりでおどして毒を飲ませようとしたところが、まちがって自分がのんでしまったのか」 「いいえ、そこはちょっと違います」 「どうちがうんだ。いいから、なにもかもいっちまえ」 「はい……」  と、そこでお園が涙ながらに語ったところによると、こうである。  ゆうべ、お園が駿河屋と、まくらをならべてねているところを、お新にたたき起こされたのは、真夜中もとっくにすぎた八ツ半(三時)ごろのことだった。  お園はあいての顔をみただけで、ギョッとした。目がつりあがり、ひとみが憎しみにもえていた。  だいいち、真夜中に女郎が、他の女郎と客がねているところへ、むだんで押し入ってくるということすら、気ちがいざたというべきだのに、お新はとぎすましたかみそりをもっていた。そして、あちらのへやへ顔をかしてほしいというのだが、いやだといったら、なにをやらかすかわからぬという、危険な、思いつめた顔色だった。  お園がギョッとおびえると同時に、はたと当惑したというのは、そのとき駿河屋もお園も一糸まとわぬ素っ裸であったのみならず、駿河屋のたくましい腕はお園の肩を抱いており、駿河屋のふとい足はまだお園の太股《ふともも》にからみついていた。  いったい、駿河屋源七という男は、ふだんはいたって鷹揚《おうよう》な男で、お園が心をこめてもてなすと、それで満足して寝てしまう男だった。女郎を脱がせてしまうような客ではなかった。ところが、ゆうべはかってがちがっていた。ゆうべのかれは、気が狂ったように情熱的で、じぶんも脱ぎ、お園もはだかにしてしまったうえ、あらゆる無理難題をふっかけた。  ゆうべはかしくの一周忌。非業《ひごう》に死んだかしくの、死の原因がハッキリしないだけに、駿河屋にはふびんなおもいが尾をひいていた。それともうひとつ、それから縁をひいて駿河屋の愛情は、ちかごろしだいにお園にかたむき、こととしだいによっては、お園を身請けしていこうという話が進んでいる。  しかし、この話にお園のほうが、二の足を踏んでいるというのは、それではいよいよ、痛くない腹をさぐられはしないかと、世間のおもわくをおそれたからだが、しかしお園も駿河屋を、憎からず思っていることはいうまでもない。  だから、ゆうべははじめから、 「今夜はふたりぶん相手になっておくれ。おれもそのつもりで、思うぞんぶんいじめてやるから、その覚悟でいろよ」  男はその宣言どおり、初手《しょて》から力いっぱい女を抱きしめ、男の神髄を発揮してあますところなく、荒れに荒れて荒れくるった。お園は男が荒れ狂えば狂うほど心うれしく、女の真情を吐露しておしまなかった。  こうしておよそ一刻《いっとき》(二時間)あまり、引きまわしたびょうぶのなかには、みえも虚飾もかなぐりすてた、男と女のかもしだす、もの狂おしい情熱の香がたてこめて、お園はいくどか男のからだにつつまれたまま、気が遠くなりそうなのをおぼえた。  男がやっとお園のからだを解放したのは、八ツ半(三時)ちょっとまえのことだったが、 「おれはこれからひと眠りするから、おまえもここでトロトロしな。だけど、いっとくがな、今度おれが目がさめたとき、いまのままの姿でねていねえと承知しねえんだから。あっはっは」  男はだだっ子のようにのどのおくで笑うと、足と足とをからみあい、まくらのしたにまわした左手で、ぐっと女を抱きよせると、寄りそってきた女の乳ぶさを愛撫《あいぶ》しているうちに、疲れがでたのか、やっと眠りにおちいった。 「うっふっふ、憎らしいひと。罪のない顔をして……」  お園は上半身をおこして、男のほっぺたにくちづけしたが、さて男のいいつけだからそのままの姿で、われから男の太股にふかぶかと足をからむと、やっとトロトロしはじめたところをお新にたたき起こされたというわけである。  お園はてっきり、お新は気がふれたのだと思った。  お園の頭にまずいちばんにきたのは、いとしい男の身の安全ということである。さいわい、男はなんにもしらずにすやすや寝ていた。それを起こさぬように、そっと寝床からぬけだしたとき、お新は底意地のわるい目で、ジロジロお園の裸身をみていた。お新はおそらくびょうぶの外で息をひそめて、男が寝入るのを待っていたのであろう。  お園の身じたくができるのを待って、お新はかみそりをひらめかしながら、お園をあかずの間へつれこむと、そこではじめて、じぶんの素姓を打ち明けたというのである。 「お新ちゃんは昼間ねこでためしてみて、あの丸薬に毒のはいっているのと、そうでないのと、ふたとおりあることを知ってたんです」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「それで、お新ちゃんは毒のと、毒でないのをふたつの杯にとかして、どっちがどっちかわからぬようにして、あたしにさきに杯をとれというんです。毒の杯にあたったほうがふしあわせ、もしじぶんがそれに当たって死んでも、それは不運とあきらめて、だれも恨みはしないからと……」  これには佐七をはじめ、そこにいる一同は、おもわず目をまるくして顔見合わせた。 「なるほど、お新はおまえを姉のかたきと、いちずに思いこんでいたが、いっぽう、おふくろの遺言もある。そこで、ひと思いにおまえを殺すわけにもいかず、じぶんのいのちとおまえの命を運否天賦《うんぷてんぷ》、杯にかけたというわけだな」  佐七がため息をつくようにいうと、お園もうなずいて、いまさらのように身ぶるいをする。 「お園、おまえはそのとき、なぜほんとうのことをいってやらなかったんだ。そういうおまえのおふくろこそ、かしくを殺した下手人だと……」  喜兵衛がくやしそうに歯ぎしりするのを、お園は首をよこにふりながら、 「だんな、そればっかりはいえません。それじゃあんまりお新ちゃんがかわいそうです。それに、それをいっても、お新ちゃんが信用してくれたかどうか……あたしはもうなにもかもあきらめました。しょせん、こうなるのがじぶんの運命なのだと思いきめました。あたしは杯をとりました。お新ちゃんものこった杯をとりました。そして、ふたりいっしょに飲んだところが……」 「お新が毒に当たったんだな」 「はい、まもなくお新ちゃんが苦しみだして、あっというまに血を吐いて、息がたえてしまったんです。それはもう強い毒で、どうするひまもありませんでした。あたしはもう気が狂いそうで、どうしてよいか思案もうかばず、とりいそぎ丸薬のはいった袋を、もとどおり、おひなさまのたんすのひきだしのなかに隠しておいて、へやから外へ逃げだすところを、ここにいる権次さんに見られてしまったんです」 「しかし、お園」  駿河屋は夢に夢見るような顔色で、 「お常さんはなんだって、かしくを殺してしまったんだ。お常さんも、妹のお新も、あとから沼津へ呼ぶことになっていたんだ。そのかしくに死なれちゃア、みすみす困ることぐらい、わかりそうなもんじゃアないか」 「だんな、そこが人の心のむずかしいところでございますわね」  と、女房のお福がため息ついて、 「こんなこと、かしくはひとことも申しませんでしたが、わたしにゃちゃんとわかっておりました。生《な》さぬ仲のかしくがあのとおりの器量よしで、親思い妹思い。お常さんにはそれがかえって、いまいましくって、くやしくって、たまらなかったのでございますよ」 「そのかしくが玉のこしにのりそうになったので、くやしまぎれにお常が一服……いや、そこまではわたしも、考えがおよびませんでした」  と、喜兵衛もため息ついてふかぶかと頭をたれた。 「お園、おまえはそれを知っていたのか」  という佐七の問いに、 「お常さんはうわべはねえさんを、なめるようにかわいがっておいでなさいましたが、ねえさんときょうだい同様にしていたあたしには、お常さんの心がよくわかっておりました。あるとき、それをねえさんにいうと、ねえさんはわっと泣きだし、そればっかりはだれにもいってくれるなと……」 「お園、それでもおまえはそのお常に、仕送りをつづけていたのか」 「はい、いまわのきわのねえさんの遺言でございましたから……」 「お園! おまえは……おまえはようしんぼうしたなあ」  たまりかねたように駿河屋が、泣きふすお園を抱きしめるのをみて、佐七はにっこり喜兵衛夫婦をふりかえった。 「だんな、おかみさん、こちとらはここいらで、引きさがったほうがよさそうですぜ。やい、権次、こんどばかりはみのがしてやる。さっさと消えてなくなりゃアがれ」  廊下へ出ると、喜兵衛夫婦が、 「親分、なんにもいわぬ、このとおりです」  と、佐七にむかって手をあわせた。  辰五郎がだれの意見にも耳をかさず、みずから船宿の船頭から足をあらい、佐七の身内に身を投じたのは、この一件があってからまもなくのことである。     嘆きの遊女  なかで目だったひょっとこ面   ——騒ぎのあとには死人がひとり 「親分、いかがです。へへへ、ひとつ当たってみやしょうか」 「なんだえ、辰」 「お隠しなすってもいけません。むこうの花のかげで、女中あいてに茶をたてているご新造、いい女じゃありませんか。あれなら親分が、魂をすっとばしても恥ずかしかアねえ。あれ、いやだな。ほら、ほら、よだれがたれますぜ」 「バカなことをいやアがる。ひとが笑うぜ」  にが笑いしたのは人形佐七。  ことしにわかに、パッと売り出した佐七は、いまではきんちゃくの辰という子分もある。腰ぎんちゃくの辰、すなわち、きんちゃくの辰である。  佐七は辰にからかわれて、人形のようなほおを染めたが、それでもまんざらでもなさそうに、 「辰、それにしてもありゃ何者だろうな。どうせ堅気じゃあるまいが、お囲いもんかな」 「へへへ、よっぽど気になるとみえますね。どれ、このきんちゃくの辰が使いやっこになって、お伺いをたててきますべえか」 「バカ、みっともねえまねはよしねえ。いいから、もう少し、ここでようすを見ていろ」  ご近所の義理で、がらにもなく飛鳥山《あすかやま》へ、お花見にと繰りこんだ佐七だった。  だが、なにがさて当時の飛鳥山ときたら、「八笑人」にもあるとおり、にぎやかなとか騒々しいとかいうだんじゃない。まるでもう気が狂ったような騒ぎ。おまけに佐七の連中ときたら、神田でうまれて、神田でそだった生えぬきの江戸っ子、遊び好きの、しゃれ好きの、芸人ばかりそろっていたから、やれ芸尽くしだの茶番だのと、うっかりつきあっていると頭痛がしそうだ。  いいかげんに座をはずした佐七は、気に入りの子分、きんちゃくの辰五郎というのをつれて、いましも、人影まばらな花の下で、いい気持ちに酒の酔いをさましているところだった。  その佐七の目に、ふとうつったというのが、少し離れたむこうの花の下で、女中あいてに静かに茶をたてている女。年は二十二か三か、まったく水のたれそうないい女だ。  どう見てもしろうととはみえないが、それでいて、どこかきりりとしたところがあり、といって、おつに澄ましているのでもない。さんざ道楽をしぬいた佐七でさえが、おもわず見とれるほどの女ぶり。 「親分、これからむこうへ押しかけて、茶の所望をしようじゃありませんか。どうせ花見の席は無礼講だ。親分はあの新造と話をしなせえ。あっしゃ女中のほうに当たってみやすから」 「なにをいやアがる。ああして茶をたてているところをみると、待ち人があるにちがいねえ。バカをすりゃとんだあかっ恥をかくぜ。ほら、みろや、むこうのほうでも、じっとあの女をみているお侍があらあ」  なるほど、少しはなれた花の下から、五十がらみの浪人ていの侍が、編み笠《がさ》片手に、じっと女のほうをながめていたが、なんとやら、その目つきが佐七には気になった。 「なあに、ありゃなんでもありませんのさ。お侍でも浪人でも、いい女はやっぱりいい女だ。それにしても、野郎、年がいもなくよだれのたれそうなつらアして、気のくわねえさんぴんだ」 「バカ、大きな声をしやアがって、きこえるぜ」  佐七があわててとめたがおそかった。浪人は鋭い目でジロリとこちらをみると、すっぽりと編み笠をかぶりなおして、逃げるように去っていく。 「それみねえ、だからいわねえことじゃねえ」  佐七はさすがにきのどくに思ったが、酒の元気で辰はいっこう平気なものだ。 「はっはっは、逃げていきゃアがった。聞こえたってかまうもんか。それより、親分……あ、いけねえ、いつのまにか先客がとび込みやアがった」  なるほど、みれば、例の女のそばへ、そのとき、足もともあぶなくよろよろと、ころげこんだ男がある。紺かんばんに下帯一本、ふうの悪い折り助が、酔いにまぎれて悪ふざけをしているらしく、女はきッと柳眉《りゅうび》をさかだて、いずまいを直した。 「そうら出やアがった。親分、いまだ。おまえさんがあの女を助ける。女のほうからほの字とくらあ。おあつらえむきの人情本さね」 「なにをいやアがる。バカも休みやすみいえ」  なんとやら、さっきの浪人の目つきが気になる佐七は、依然無言のまま、むこうのようすをながめていたが、折り助の悪ふざけは、しだいに露骨になってくる。もうこれ以上、捨ててはおけない。佐七が腰をあげようとしたときだ。  女の肩にしなだれかかった中間《ちゅうげん》が、なにやら、その耳にささやいたかとおもうと、いままで逃げ腰になっていた女が、ハッとしたようすで、あいての顔を見直したから、おや、こりゃ風向きが変わってきたぞと、佐七がおもわず二の足を踏んだのが、あとから思えばそもそもまちがいのもと。  ちょうどそのとき、むこうの花のふもとから、わっしょい、わっしょいと肩組みあって踊りだしてきたのは、十五、六名の若いもの、そろいの衣装に、めいめい花見のお面や目かつらをつけたのが、いきなりわっと女と中間のまわりを取り巻くと、手を握るやら、しなだれかかるやら、だんごのようにもみあって、いやもう、たいへんな騒ぎになった。  なかでもひとり、ひょっとこの面をかぶっている男、そいつだけ衣装がちがっているのだが、それがひとりであばれているのが目についた。 「ちくしょうッ、いやなわるさをしやアがる」 「だからいわぬこっちゃねえ。親分がはやくとび出さねえからですよ」  だが、その騒ぎもながくはつづかなかった。さんざっぱらあばれまわった若いものが、わっと歓声をあげて、四方に散ったあとには、女と女中と、例の紺かんばんの三人だけ。  佐七はふいにはっと顔色かえ、 「おい、辰、いま逃げていったやつをひっぱってこい」 「へえ」 「へえじゃねえ。人数はたしかに十五、六人、のこらずここへひっぱってくるんだ」  いいも終わらず、タタタタタと女のそばへ駆け寄って、 「ご新造、こ、これはいったいどうしたんですえ」 「はい」  さっきの騒ぎで逆上したのか、ほんのりと顔を染めた女は、女中とふたり、おこりが落ちたようにきょとんとしていたが、佐七に指さされてひとめ中間のほうへ目をやるや、 「あれえっ」  と叫んで、女中のからだにしがみついた。  むりもない。中間ののどにはぐさりと一本、銀かんざしが深く食いこんで、あたりはいちめん唐紅《からくれない》。むろん、すでにこときれていた。 「野郎、やりゃアがったな」  それとみるよりきんちゃくの辰、しりはしょっていちもくさんに駆け出した。  面ふろしきの中は血まみれ獄衣   ——中間《ちゅうげん》のことばに顔色が変わった  さあ、たいへんだ。  花見るひとの長刀《なぎなた》どころの騒ぎじゃない。げんにここにひと殺しが行なわれたのだ。しかも、じぶんの面前で、あっというまに演ぜられたこの惨劇に、佐七がじだんだふんでくやしがったのもむりはない。  ちょうどさいわい、おりから与力の神崎《かんざき》甚五郎が、手先をつれてこのまわりに出まわっていたが、騒ぎを聞きつけてすぐ駆けつけてきたので、花見の席はたちまち、取り調べの場と早変わりをする。  女の名はお粂《くめ》、としは二十三、親も親戚《しんせき》もなく、そこにいるお銀という、ことし二十五になる女中のほかに、数人の女とともに、お茶の水に住むものとばかり、それ以上、多く語ることを好まないらしいところをみると、最初、佐七がにらんだとおり、お囲いものかなにかであろう。 「ところで、お粂とやら、この男に見覚えがあるか」 「いいえ、それがいっこう。お銀、おまえ知っておいでかえ」 「いいえ、わたしも、いっこうに存じませぬ」  女中のお銀というのは、いかにもしっかりものらしい中年増《ちゅうどしま》だったが、これもくちびるをふるわせて否定する。 「でも、ご新造、このかんざしは、たしかおまえさんのものでしたねえ」 「あれ」  女はおもわず頭に手をやって、 「まあ、それではさっきの騒ぎのあいだに、だれかが抜きとったのでございましょうか」 「ふうん、すばしっこいまねをしやアがる。しかし、おまえさん、ほんとうにこの男に見覚えはありませんかえ」 「はい、いっこう。ふいにここへおどりこんで、なにやらいやらしいことばっかり」 「そいつはおいらもむこうから見ていたが、こいつなにか、おまえさんにいやアしませんでしたかえ」 「え?」 「いや、これはおいらの当て推量だが、こいつのことばでおまえさんの顔色が変わったようにみえたからさ」  女はハッと顔色を動かしたが、 「いえ、あの、それは親分のお目ちがいでございましょう。いっこうそのような覚えは……」 「ないといいなさるか」 「はい」 「なるほど。すると、おいらの思い過ごしか。いや、岡《おか》っ引《ぴ》きというやつは、疑い深いものと思いなさるだろう。はっはっは。ときに、ここにあるふろしき包みは、おまえさんがたのものですかえ」  佐七は踏みにじられた緋毛氈《ひもうせん》のうえから、あかじんだあさぎ色のふろしき包みをとりあげた。 「ああ、それなら、そこにいるそのひとが持ってきたものでございます」  女中のお銀が倒れている中間を指さした。 「なるほど、この野郎のものか。だんな、なかを調べてもかまいませんか」 「よかろう。あけてみろ」  甚五郎の許しに、手早く結びめをひらいた佐七は、ふろしきのなかから出てきたしろものをひろげてみて、おもわずハッと顔色をかえた。  なかみは水あさぎ色のひとえいちまい、しかもこれが、ただのひとえではないのである。その両わきには、槍《やり》でついたような穴がひとつずつあいていて、しかもそこからわき腹へかけて、べっとりと黒い血がしみついている気味悪さ。 「なんだ、こりゃ、おしおき人の獄衣じゃないか」  さすがの甚五郎も、職掌がらなれているとはいえ、あまり意外なしろものに、おもわず顔をほかへそむけるのだ。 「だんな、そうらしゅうござんすね」  品《しな》もあろうに三尺高い木のうえで、ありゃりゃという非人の掛け声もろとも、処刑をうけたしおき人の、不浄の獄衣というのだから、この花のお山のできごとにしちゃ、あまり話がかけはなれている。佐七が顔色をかえたのもむりではない。  おりからそこへきんちゃくの辰が、さっきの騒ぎの十数名、そろいの衣装のわかいものを、まるで金魚のうんこのように、ゾロゾロあとに従えてかえってきた。  なでしこゆかたにひょっとこの面   ——その東雲《しののめ》はわたくしでございます 「親分、やっと捜してきやした。ひでえ野郎どもじゃありませんか。またむこうのほうで、さんざんあばれていやアがるんです」  みちみち辰の口から、このおそろしいできごとを聞きしったとみえて、総勢十五名のわかいものは、さっきの勢いはどこへやら、酒の酔いもさめはてて、青菜に塩とばかり、すっかりしょげきっている。 「だんなえ、どうもすんません。いま承りますと、とんだことが持ち上がりましたそうで。まさかあっしらの仲間に、そんなだいそれたまねをするやつはあるまいと思いますが、どうぞご得心のいくようお調べ願います」  なかで頭《かしら》だったのが、いたみいって頭をかいた。  この一行は、下谷|練塀町《ねりべいちょう》にすむ棟梁《とうりょう》、染五郎というものの身内の連中で、みんな素姓のわかったものばかり。酒のうえからついあんないたずらをしたが、だれひとり、殺された男を見知っているものはないという。 「それにしてもふしぎですね。おまえさんたちがあばれ込むのを待ちうけたように、こんな騒ぎが起こったんですから、あまり平仄《ひょうそく》があいすぎましたね」 「いや、そのお疑いはごもっともで。それについてここへくるみちみち、みんなと話し合ってみたんですが、おい、留、ここへ出ろ、てめえから、さっきの話を申し上げてみろ」 「へえ、へえ」  一同のなかから現われたのは、大工にはおしいような、ちょっとすごみのあるいい男、小ばくちでも打ちそうなやつが、もみ手をしながら語ったところによると——  あの騒ぎの起こる少しまえのこと、染五郎の身内十五名のものは、少しはなれたむこうの桜の下で酒宴を張っていた。持ってきた酒もあらかたかたづけて、みんなもういいかげんに酔っぱらって、なかにはくだを巻くやつ、鼻歌をうなるやつ、留吉はひとり離れて、ぼんやりと風をいれていると、そこへやって来たのが、ひょっとこの面をかぶった男で、 「兄い、どうしたい、ひとついこう」  と、なれなれしく杯をさした。  面をかぶっているから人相はわからないが、衣装がちがうから、むろん身内のものではない。しかし、花の山にはよくあるならい、留吉も遠慮なく杯をうけ、しばらくふたりでいい気持ちになって、さしつさされつしているうちに、 「おい、兄弟、むこうのほうに、そりゃすごいような新造がいるから、ひとつあの女を、からかってやろうじゃないか」  と、そいつがいいだしたのである。 「よかろう。そいつはおもしれえ」  留吉が勢いこんで、ほかの連中を誘うと、そこはみんな若いもの、ましてやお神酒《みき》がいいぐあいに回っているのだ。たちまちわっと沸きたって、ああいう騒ぎがはじまったのである。 「それで、そのひょっとこ面の男はどうしましたえ」 「それがわからねえんで。ここでもみ合っているときにゃ、たしかにいたんですが、あんちくしょう、いつの間にやら消えちまやアがった」  むろん当の留吉が知らぬくらいだから、ほかの連中に心当たりがあろうはずはなかった。  しかし、留吉の話にうそがあろうとは思えない。げんに、佐七はじぶんの目で、ひょっとこ面の男がひとり、あばれているのを目撃しているのだ。ほかの連中がだんごつなぎのそろいの衣装を着ているのに、そいつだけが、なでしこのゆかたをきていたのも覚えている。  念のため、十五人のからだをしらべてみたが、だれもひょっとこの面を持っているものはいなかった。こうなると佐七も困《こう》じ果てる。  みんな悪いことをしたのにはちがいないが、それとて、法に触れるほどのことでもない。花の山で女をからかうぐらいのことはありがちなこと。あいてに危害でも加えたというならともかく、そうでもないのだから、罰しようにも罰しようがない。といって、下手人にたくみに利用されたからには、かかり合いたるはまぬかれぬ。  佐七は与力の神崎甚五郎ともよく相談したあげく、 「よくわかりました。おまえさんがたにゃおぼえがないとしても、かかり合いだから、町内預けぐらいのことは、覚悟してもらわにゃなりません」 「へえへえ、どうも恐れ入ります」 「ところで、そのさたは追ってのこととして、きょうのところ、おまえさんがたにひとつ頼みがある」 「へえ、そりゃもう、どんなことでもいたします」 「頼みというのはほかでもない。おまえさんがたで手分けをして、これから、なでしこゆかたにひょっとこ面の男を捜してもらいてえんで」 「ああ、そんなことなら造作《ぞうさ》ありませんや。おい、みんなきいたか。なでしこのゆかたにひょっとこ面の男だよ。それ、行け」  頭だったやつの命令に、若いものがバラバラと散ったあと、なに思ったのか留吉のみは、妙にもじもじしながらあとに残っていたが、 「親分え、じつァさっき、申し忘れたことがございますんで」 「なんでえ、留さん」 「へえ、じつはさっき、ひょっとこ面の男がこう申しましたんで。むこうにいるのはありゃ、もと吉原《よしわら》の玉屋で全盛をうたわれていた東雲《しののめ》という太夫《たゆう》だと、こう申しますんで。なんせ東雲太夫なら、こちとらのようなもんでも、名まえぐらいは知っていようという名高い花魁《おいらん》。それでつい、ああいういたずらをやっちまったんでございます」 「なんだえ、東雲太夫だと?」  東雲太夫なら佐七もその名を知っている。  二束三文のはした女郎とちがって、いわゆる大名道具。花魁の価値のだいぶさがったそのころでも、東雲太夫といえば、嬌名《きょうめい》一世にうたわれたものである。  佐七もかねて名まえを聞いていたから、おどろいて、 「して、して、その東雲太夫はどこにいるんだ」 「はい、あの、その東雲はわたくしでございます」  お粂がそのとき、ポーッとほおをそめ、白魚のような指を緋毛氈のうえについたから、佐七は二度びっくり、佐七がおもわず見とれたのもむりはない。この女こそ、一世を風靡《ふうび》した遊女、東雲の成れの果てだったのだ。  奇怪なるお迎え輿《こし》   ——だまされてうれしいのは人形佐七  お茶の水と神田お玉が池といえば、つい目と鼻のあいだ、そのちかまにあんな美しい女が住んでいたのかと、佐七はいまさら、じぶんのうかつさが腹だたしくなってくるくらいだ。  あれからというもの、佐七の目にはお粂の面影がちらついて離れない。これをおおげさにいうと、寝ては夢、起きてはうつつまぼろしの、というやつである。  岡っ引きが女にほれたというと、いささか話が妙だが、岡っ引きとて生身のからだ、ましてや血の気の多い人形佐七、しかもうまれつきどういうものか、女にはいたって目のないほうだから、佐七がそれ以来、東雲花魁のまぼろしに、いちじにポーッとしてしまったのも、これまたむりのない話。  飛鳥山のひと殺しは、ついに下手人はわからずじまい。下手人はおろか、被害者の身もとさえ判明しないのである。  染五郎身内の若いものが、せっかく手分けして山中を狩りたててみたけれど、むろんそのころまで、目印の衣装、お面でうろついているほど、犯人は愚かなやつではなかった。  見つかったのは、桜の枝にぶらさがっていたなでしこの衣装と、ひょっとこの面ばかり。それがあたかも佐七の愚を嘲笑《ちょうしょう》するかのように風に吹かれているのを、若い衆のひとりが発見したのである。いうまでもなく、下手人ははやくも衣装をかえて逃走したのである。  場所は飛鳥山だから、佐七はかならずしもこの事件に責任をもつ必要はなかったのだが、しかし、なんといってもじぶんの眼前で行なわれた事件だけに、くやしさはいっぱい。  それに、気にかかるのはお粂の身辺だ。事件は偶然、お粂の身辺で演ぜられたのだろうか。それとも、お粂になんらかのかかわりあいがあるのだろうか。  佐七にはどう考えても後者のように思われる。花のかげから、お粂のほうを見ていたあの浪人ものの目つきといい、はたまた、折り助のもっていたふろしき包みのなかから出てきたあの気味悪いおしおき人の血まみれ獄衣といい、あのうつくしい遊女の身辺に、なにかしら容易ならぬ悪だくみが計画されているように思われてならぬ。  ああ、あの女の力になってやりたい。そして、このおそろしい事件から、あの女を救ってやりたい。あれから三日、佐七が寝てもさめてもそんなことを考えているところへ、子分のきんちゃくの辰が、風のように舞いこんできた。 「親分、たいへんだ。留吉の野郎が姿をかくしゃアがった」 「なんだ、留吉の野郎がずらかったと?」 「そうなんで。あっしゃ、はなからあの野郎を臭いとにらんでいたんです。大工のくせに、いやに目つきの鋭い野郎で、それに、極内《ごくない》で、小ばくちにも手を出しているという話もあります」 「よし、したくをしろ」  佐七がすっくと立ち上がったときである。表へとまったかご一丁。音羽のこのしろ吉兵衛が急病だから、すぐこのかごで来てくれという口上である。  おりもおり、佐七はちょっとまゆをひそめたが、このしろ吉兵衛といえば、佐七にとって親代わりの恩人だ。御用も御用だが、このほうも捨ててはおけぬ。 「おい、辰や、聞いてのとおりだから、おれアちょっと音羽のほうへ顔を出して、それから下谷へまわるから、てめえひとまず染五郎のほうへいってろ」 「おっと、合点。音羽の親分によろしくいっておくんなさい」  きんちゃくの辰がしりはしょってとび出したあと、佐七が表へ出てみると、迎えかごというのは、つじかごならぬ、りっぱな朱塗りのかご。 「おや、これがおいらのかごですかえ」 「へえ、ちょうどほかのが出払ってましたもんで」  ふかくも怪しまず佐七はそのかごにのったが、しばらくいってふと外をみると、どうやら方角がちがっている。 「おや、若い衆、こりゃ道がちがやアしねえかえ」 「お静かになさいまし」  かごの外からこたえたのは、意外にも女の声だった。 「え?」 「けっして悪いようにはいたしませぬ。子細あって、あからさまにおまえさんをお迎えすることのできぬもの。いつわりを申して申しわけございませんが、どうぞ黙って乗っていてくださいまし」  それからあとはうんともすんとも答えない。ただ、ひたひたとぞうりの音が、かごのそばにきこえるばかり。 「ふうん、こいつはおもしろくなってきたわい」  佐七はかごのなかで腕をくんだまま、黙りこくって成り行きにまかしている。  やがて、かごは大きなお屋敷のなかへはいった。玄関からそのまま座敷へ通される。そこでドシンと息づえをおろすと、 「あ、お連れ申してくれましたかえ」  と、聞きおぼえのある女の声。佐七はそれをきくと、おもわずぎょっとして、全身が火のようにほてるのを感じたが、やがてスラリとかごの戸を外から押しひらき、 「親分さん、無礼なお迎え、どうぞかんにんしてくださいまし」  かごのまえに手をつかえたのは、佐七が夢にも忘れることのできぬ、遊女東雲のお粂だった。こんなうれしい迎えなら、いくらだまされてもいいとばかり、佐七のやつ、おもわずポーッとなりやアがった。  ふしぎなお粂《くめ》の身の上ばなし   ——素姓を知りたくば飛鳥山へ 「花魁、いやさ、お粂さん、こりゃいってえどうしたことでござんす。用事があるならそういってくださりゃ、すぐにもとんでめえりますものを、おまえもよっぽど物好きじゃねえか」 「なんとも申しわけございません。でも、これにはいろいろ子細のあること。親分さん、どうぞわたしを助けておくんなさいまし」  ほれた女から、こう、じっとうわ目で見られて、佐七はおもわず、ぶるぶるッと身震いをした。 「助けてくれとは、お粂さん、そりゃいってえ、どういうわけですえ」 「はい、それをお話しするには、どうしても、ひととおり、わたくしの身の上からお話し申し上げねばなりません。どうぞ聞いてくださいまし」  こう前置きして、お粂の語った話というのは、だいたいつぎのとおりである。  お粂は、父も知らなければ、母も知らず、じぶんが何者であるか、まったく知らぬあわれな孤児。七つのときに吉原の玉屋へ売られ、二十二になる去年まで、東雲と名のって全盛をうたわれていたが、去年の暮れのことである。  茶屋から名ざしであがった客がある。宗十郎ずきんでおもてをつつんでいるので、よくわからなかったが、そうとう年配のお武家である。  侍はずきんを脱ごうともせず、また床へはいるのでもなく、ひと晩、東雲と語り明かしてかえったが、それから三日め、ばくだいな身のしろ金をつんで、東雲を落籍《ひか》し、このお屋敷へ住まわせたのである。  武家はそれから、月にいちどずつこの屋敷へやってくる。しかし、いつもずきんでおもてをつつみ、身分を明かすのでもなく、姓名を名のるのでもない。  また、東雲を落籍《ひか》したのだが、けっして色恋のさたでない証拠には、いままでついぞ、いやらしいそぶりをみせたことがない。ただ半刻《はんとき》あまりしずかに茶を飲み、なにくれとなく、お粂の身の上話など聞いたうえ、月々の仕送りをおいて、いずこともなく立ち去るのである。  お粂は、ひょっとすると、これはじぶんの親戚のものか、それとも父を知っているひとでもあろうかと、ときどき口裏をひいてみるが、その話になると、あいてはいつも、ことばを濁すばかりか、けっしてじぶんの身分姓名を知ろうとしてはならぬ、また、じぶんのあとをつけたり、またひとにこのようなことを話してはならぬと、かたく申しつけるのであった。  この素姓の知れぬ人物の世話になっていることが、お粂にはしだいに気味悪くなった。そこへもってきて、このあいだ、知らぬ男より、とつぜん妙な手紙が舞い込んだのである。  子細あって、わたしはおまえの素姓を知っている。また、おまえの父のかたみも持っている。おまえがじぶんの素姓を知りたくば、あす、飛鳥山へ花見にこい。そのとき、おまえの身分を知らせてやろうし、また、おまえの父の遺品をわたそう、という手紙なのである。 「それで、さしずどおり飛鳥山へまいりましたところが、あのような騒ぎが起こりましたので、わたしには、なにがなにやらわかりません」 「ふうん」  あまり奇妙なお粂の話に、佐七はおもわず吐息をついて、 「すると、あの折り助は、おまえさんに素姓を教えようとしたのかえ」 「はい、そうらしゅうございます。いろいろ悪ふざけをいたしますので、逃げようとするはずみに、きのうの手紙を見なすったかと、こう、耳もとでささやきます。ハッとして顔を見なおし、これからわけを聞こうとするところへ、ああいう騒ぎがもちあがったので、せっかくのところ、そのあとが聞こえませんでしたのが、いかにもざんねんでなりません」 「すると、なんだね、おまえさんに身分を知らせたくない男が、あの折り助を殺《や》ったとみえるが、それにしても、とっつぁんのかたみというのは?」 「それがあの騒ぎで、つい、もらうことができませんでしたが、ひょっとすると、あのふろしき包みではないかと思うと……」  お粂はそういうと、おもわず色青ざめて身をふるわせた。むりもない、それが父の遺品とすれば、お粂の父は、じつにおしおき人ということになる。  佐七はいまさらのように、このあやしい因縁につきまとわれたうつくしい女の顔を、哀れふかく見直さずにはいられなかった。 「それで、花魁、いや、お粂さん、きょうおいらをお招きなすったのは?」 「さあ、それでございます。このような恐ろしいことが起こってみれば、どのようなことをしても、わたしはじぶんの素姓を知らずにはおられません。それで、親分さんに願いというのは、いつもくるお侍のあとをつけていただきとうございます」 「ほほう、侍のあとをつける?」 「はい、あのひとなれば、きっと詳しい事情を知っているのにちがいございません。ちょうどさいわい、きょうはあのひとがくる日ゆえ、おまえさんにあとをつけていただいて、むこうの身分姓名を、しっかと突き止めていただきとうございます。わたくしもこうなったら、たとい父が非人こじき、あるいは天下をねらう大罪人でも、はっきりと、身の素姓を知りとうございます」  お粂はわっと、佐七のひざに泣き伏した。  意外、ひょっとこ面のなぞ   ——佐七はお粂の手をとり引き寄せた  それからおよそ、一刻《いっとき》あまりのちのこと。  お茶の水から本郷、本郷から上野へと、佐七はおりからのおぼろ月をさいわいと、必死となってひとりの武士のあとをつけていた。  いうまでもなく、その武士は、たったいま、お粂の寮から出てきた人物。すっぽりと宗十郎ずきんにおもてをつつみ、とぼとぼと肩を落としていくうしろ姿の、なんとやら異様に寂しくみえるのが、佐七の胸を強くうった。 「あいつだ。たしかに、飛鳥山の花の下で、じっと花魁のほうをみていた男だ」  顔は見えない。  しかし、おぼろ月夜に浮き出したそのうしろ姿にまちがいはない。佐七はいまにもおどりかかってひっ捕えようかと思ったが、お粂の頼みを考えると、すぐその考えをもみ消した。お粂はただつけてくれろとばかり、捕えてくれとはいわなかった。  佐七がつけているのを知ってかしらずか、武士は鶯谷《うぐいすだに》のほうへ降りていくと、ある大きなかぶき門のなかへスイと吸いこまれていく。  その武士のうしろ姿を見送っておいて、佐七も屋敷のなかへ忍び込んだ。と、まもなく、ぴったり閉ざした雨戸のなかから、カンカンと鉦《かね》をたたく音。  おりがおりだけに、その鉦の音の異様な寂しさが、佐七の胸にしみとおった。  息をころして佐七が雨戸の外でうかがっていると、やがてプッツリ鉦の音もやみ、やがて、プンと鼻をついたのは線香のにおいだ。 「はてな」  佐七がいよいよただごとならずと、庭に踏みこみ、雨戸に手をかけたときである。かぶき門のまえに、一丁のかごがとまったかとおもうと、ころげるように出てきたのは、意外にも、たったいま別れてきたばかりの東雲のお粂ではないか。 「おや、お粂さん、おまえどうしてここへ」 「おお、親分さん、あのひとは——? あのひとは——?」  お粂の声はうわずって、目の色もただごとではない。 「あいつはたしかに、この家のなかにいますぜ」 「早くきておくんなさい。おお、もうおそすぎたかもしれぬ」  しどろもどろのお粂のようすに、佐七はなにがなにやらわからぬながらも、雨戸をけやぶりなかへおどりこんだが、その拍子に、さすがの佐七もおもわずその場に立ちすくんだ。  座敷のなかは唐紅《からくれない》。その血の海のなかに、三人の男が死んでいるのだ。  そのなかのひとりはいうまでもない、さっき佐七があとをつけてきた武士。これはみごとに腹かっさばいて、はや虫の息だった。  もうひとりの男は、これも武士だが、腹かっきった男に、どこやら容貌《ようぼう》の似かよったところがあるのをみれば、どうやら兄弟らしい。これは袈裟《けさ》がけに切られて死んでいた。  さらに、三人めの男だが、これを抱き起こして佐七もおどろいた。これぞ余人ではない、棟梁染五郎の身内のわかい衆、ゆくえをくらました留吉ではないか。  佐七もさすがにぼうぜんとして、 「お粂さん、こ、こりゃいったい、どうしたことだえ。そしてまた、おまえさんには、どうしてこの家がわかったんだえ」 「親分さん、これを見ておくんなさい。この書き置きが、お侍のかえったあとの座敷にのこっておりました。ああ、わたくしはなんという因果なものでございましょう」  お粂は、切腹した武士のそばにかけより、その耳に口をつけると、 「熊谷《くまがや》さま、熊谷さま、恨みは恨み、ご恩はご恩、かならずたいせつに回向《えこう》しますほどに、どうぞ、どうぞ成仏してくださいまし」  武士はそれをきくと、にっこり笑ってそのまま息がたえてしまった。  さて、お粂よりわたされた遺書によって、だいたいつぎのような事情が判明したのである。  切腹した武士は、熊谷|武兵衛《たけべえ》、また切り殺されている侍は、同名|新之助《しんのすけ》といって、ふたりは兄弟で、もと天草の浪人だった。おなじ天草の浪人に磯貝九郎右衛門《いそがいくろうえもん》というものがあって、これがお粂の父親になる。  この三人は主家を浪々するとまもなく、密貿易の仲間にはいり、それぞれいっぽうの旗頭《はたがしら》になった。密貿易とはいうものの、これは一種の海賊である。しだいにお上の詮議《せんぎ》がきびしくなるにつれて、仕事のほうもおもわしくなくなり、やがてこの三人のあいだに仲間割れを生じ、ついに武兵衛、新之助のふたりは、お粂の父を密訴しておいて、じぶんたちはかせぎためた金をそっくり手に入れ、この江戸へ逐電してきたのである。  お粂の父、九郎右衛門は、むろん捕えられると同時に刑場の露ときえ、海賊仲間はそれきり四散してしまった。  こうして幾年かたつうちに、寄る年波、兄の武兵衛はしだいに昔の所業が悔やまれてくる。なんとかして九郎右衛門のあとを弔いたいと思っているうちに、ふと九郎右衛門が丸山の遊女にうませた子どもが、江戸の吉原で花魁になっているときき、これを身受けして、せめて九郎右衛門の菩提《ぼだい》を弔うつもりだった。  ところが、兄の武兵衛とちがって、あくまでも腹黒い弟の新之助は、兄のそういう仏心《ほとけごころ》があぶなっかしくてたまらない。九郎右衛門の遺児に近づくことは、とりもなおさず、むかしの仲間に居どころを知らせるようなものである。  武兵衛兄弟に、裏切られたむかしのなかまは、つねに九郎右衛門の遺児の身辺に、注意を怠らないにちがいない。そう思うと、新之助は、兄の所業がこころもとなくてしようがなかったが、その懸念は、はたしてまもなく、事実となって現われたのである。  かねてより、東雲に気をつけていたむかしの仲間の久造というものが、東雲の奇怪な身受けざたから、ついに熊谷兄弟の居どころをつきとめた。  こいつがまた悪いやつで、あいての居どころをしると、九郎右衛門の血まみれ獄衣をネタに、兄弟をゆすりにかかる。その要求がしだいに大きくなるので、しまいにはねつけると、こんどは東雲にそのことを打ち明けるという。  兄の武兵衛はこのじぶんより、すでに覚悟をきめていたが、弟のほうは、あくまで生きのびたい心。そこで賭場で知り合いになった留吉に命じて、久造を殺させたのである。あの折り助が久造だったことはいうまでもない。  意外にも、あのひょっとこ面は、留吉自身だったのである。かれはあの日、二枚の衣装と二種の仮面で、たくみにひとりふた役を勤めたのだ。なにしろ、ほかの連中は酔っぱらっていることとて、かれが衣装を脱ぎかえるひまは、じゅうぶんあったと思われる。  さすがの佐七も、これにはまんまと一杯ひっかかったのだ。 「それにしても、お粂さん、おまえさんこれからさき、どうなさるつもりだえ」  長い遺書を読みおわって、佐七はほっとお粂をみる。 「はい、わたしのような因果なものは、尼にでもなろうと思います。どうせ行くところはなし、鎌倉へまいれば尼寺があるとのこと」 「尼になる? それもよかろう。しかし、お粂さん、行く先がなにもないわけじゃなし」 「え?」 「よかったら、おいらのところへきてくんねえな」 「あれ、親分さん、ご冗談ばっかり。わたしのようなものを」 「なにを冗談いうものか、どうせ割れなべにとじぶただあな。お粂さん、おれは、ひとめ、おまえを見たときから、おれは、おれは——」  お粂の手をとった人形佐七、おもわずそのからだを抱き寄せたという。  それからまもなく、お玉が池の佐七の家には、お粂というきれいな女房が、長火ばちのまえにすわることになったが、ところがこれが、寛政五年|癸丑《みずのとうし》のうまれというから、佐七よりもひとつ姉さん女房、しかもこれが、おっそろしくやきもちやきときているうえに、持ったが病で、佐七がちょくちょくうわきをするところから、風雲お玉が池、ときおり珍妙な騒動がもちあがろうというお話は、いずれそのつど稿を改めて。     音羽の猫  当てられ辰五郎   ——やれやれまたもや毒気に当てられた  古いことばにも、春眠あかつきをおぼえず、なんどといって、さくらの花の咲くじぶんから、若葉のころへかけての朝ねぼうというやつは、また、かくべつ味のあるもので。  おなじみの人形佐七、きょうもきょうとて、日当たりのいい縁側で、ごろりと手まくらで、ポカポカとしりをあたためながら、うつらうつらとやっているところなんどは、いかさま天下泰平、いい気持ちそうだ。  時刻は朝の四ツどき(十時)  いったい佐七は癇性《かんしょう》だから、いつも六ツ半(七時)になると、顔をあらって、飯を食ってしまうのだが、さて、そのあとが、ポカポカの、うつらうつらというわけで、岡《おか》っ引《ぴ》きが朝寝をしていられりゃ、いかさま天下泰平、五穀|豊穣《ほうじょう》の瑞象《ずいしょう》にちがいない。  そばでは女房のお粂が、 「ちょいと、おまえさん、寝入っちまっちゃだめよ。そら、かぜをひくじゃありませんか」  などといいながら、器用に針をうごかしている。  このお粂というのは、もとは新吉原《しんよしわら》で全盛をうたわれたほどの女だが、佐七と家をもってからは、がらりと素っ堅気になって、いまじゃ裁縫もするし、すすぎせんたくにも、いやな顔はしないという、あっぱれな女房ぶり。  もっとも、近所のうわさによると、いささか悋気《りんぎ》ぶかいのが玉にきずだというが、こうやって、縁側に夫婦ふたりが、甲らをほしているところは、くどいようだが天下泰平。せまいながらも、庭のかきねには、お粂の丹精になるあさがおの苗がはや一、二寸、表をとおる定斎屋《じょうさいや》の荷の音も、どうやら、夏のちかいのをおもわせる。 「ちょいと、おまえさん、おまえさんたらよ。しょうがないわねえ。寝入っちまっちゃだめだというのに。ちょいと、起きなさいよ」  と、お粂につつき起こされて、 「あ、あーあ」  と、いろけのない大あくびをした佐七は、ごろりと寝返りをうって、 「お粂、辰の野郎はまだ起きてこねえか」 「あい、まだ寝ていますよ」 「あんちくしょう、しようのねえ野郎だ。いま、なんどきだと思ってやがるんだろう。おてんとうさまが、そろそろ、頭のうえまでお上がりなさるじぶんだなア。いい若えもんのくせに、だらしがねえ」  と、佐七がぶつぶつ小言をならべると、お粂もそのあとについて、 「ほんとだよ、おまえさん、たまには意見をしたらどうだねえ。辰つぁんのちかごろの行状ときたら、なんぼなんでも、少し目にあまりますよ。毎晩毎晩、かえりがおそくて、あたしゃうるさくてしようがない」 「野郎、なにかできたかな。まあ、いいや。あいつも若いもんのことだから、しようがあるめえ。それになあ、お粂。まいにちまいにち、こう見せつけられちゃ、あいつも家に居づらかろうよ」 「ほっほっほ」  と、お粂は皮肉にわらって、 「それもそうだけれど、おまえさんも、遊びの意見だけは、よっぽどしにくいとみえますね。勇将のもとに弱卒なしというけれど、ほんに、おまえさんと辰つぁんのことだよ」 「おや、お粂、変なことをいうぜ。すると、なにかえ、このおれに、なにかしりこそばゆいとこ)ろがあって、それで、辰の野郎に意見ができねえというのかえ」 「おおかた、その見当でしょうよ」 「こんちくしょう、ふざけちゃいけねえ。ようし、それじゃ辰の野郎をたたき起こしてこい。おめえのまえで、うんと油をしぼってやる」 「ほっほっほ、いまさら、そんなことをいったって、付け焼き刃はだめですとさ」 「なにを!」  売りことばに、買いことばというやつである。  佐七が、どうでもみっちり、辰に意見せずにはおかぬと、子どものように意気込むのを、お粂は柳に風とふきながしながら、 「まあ、いいから、寝かしておいておやんなさいよ。おや、まあ、おまえさん、ひどいつめだこと。じっとしていらっしゃい。あたしがつんであげよう」  と、あおむきに寝ころんだ佐七の足をひざにのせ、くくりざるのついた手はさみで、チョキン、チョキン。  佐七は目をほそくして、 「おお、いてえ。お粂、肉を切りゃしねえか」 「だいじょうぶよう。動くとあぶないから、じっとしていらっしゃいよ」  と、これでどうやら風雲はおさまったらしいが、おさまらないのは、さっきから、いちぶしじゅうをきいていた二階の辰だ。  ことわっておくが、このじぶんは、まだうらなりの豆六は、弟子《でし》入りをしていなかったから、二階には、きんちゃくの辰がただひとり、権八をきめこんでいたのである。 「ハークショイ。やれやれ、またもや毒気にあてられたらしいわい」  と、きこえよがしに辰がどなるのを、きいて佐七とお粂は顔を見あわせ、おもわずくすりと忍び笑い。 「辰つぁん、目がさめているんなら、さっさと降りておいでなさいよ。いつまで、寝ているんだろう。目の玉がとろけてしまうよ」  と、お粂が二階にむかって呼ばわれば、 「寝てやしませんや、さっきから、ちゃんとお目ざめですよう」  と、これはまた、やけに情けない声だった。 「起きているんなら、世話をやかせないで、さっさと、降りてきたらいいじゃないか」 「さあ、そこでがす。あっしもさっきから、もう降りようか、さあ降りようか、と、寝床ンなかで、むずむずしているんですが、いやもう、なにやかやとごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ。こう、親分もあねさんも、二階にはひとりもんがかわいそうに、ひざ小僧を抱いてねてるんですぜ。すこしゃ、お手柔らかにねがいたいね」  と、やけにどんどん、はしご段をふみならして降りてきたが、縁側におけるてんめんたる情景をひとめ見ると、 「やっ、こいつはいけねえ。タハハハ、またもや毒気にあてられたか」  と、手ぬぐいつかんで井戸ばたへとびだした。  ねこのつめ切るいろ男   ——ニャンともいわずに逃げました  やがて、車井戸をやけにならしながら、からすの行水というやつである。つめたい水で、プルプルッと顔をなでた辰は、手ぬぐいを腰にちょいとはさんで、庭から縁側のほうへまわってくると、 「親分、おはようござい。あねさん、おはようございます」  と、縁ばなに腰をおろして、ことわりもなしに、佐七のキセルをひきよせると、勝手に萩原《はぎわら》をつめて、プカリプカリとすましたもので、 「あねさん、いいお天気ですねえ」 「なにをいってるんだよ、バカバカしい。はい、おまえさん、すみましたよ」 「おっと、あねさん。親分のがすんだら、こんどはあっしのつめを切ってもらえませんかね」 「ご冗談もんでしょう。おまえさんのつめなんか、切るのも……」 「はさみのけがれというわけですかえ。いや、ごもっともさまで」  と、きんちゃくの辰め、なにに感心したものか、しきりに小首をかしげながら、タバコをつめかえて佐七にわたすと、 「ときに、親分、おまえさんがつめを切っていなさるんで、思い出しましたが、ここにひとつ、ふしぎな奇談がありやす」 「なんだ、妙にあらたまりやがったな。おれがつめを切ったら、どうしたというんだ」 「じっは、あっしもゆうべ、さるところで、つめを切りました」  という辰の指をみてお粂が、 「バカをおいいでないよ。辰つぁん、おまえさんのつめは、あかだらけじゃないか。それがゆうべつんだつめかえ」 「いや、ごもっとも、あねさん、こいつはあっしの、いいかたがまずうござんした。じぶんのつめを切ったんじゃねえんで。じつは、あっしがつめを切ってやったんで」 「おや、まあ、辰つぁん、さっきのかたき討ちかえ。朝っぱらから、手放しはおそれいるわねえ。おまえさんが、女の子のつめでも切っておやりかえ」  と、お粂がそこらにちらかった佐七のつめをかたづけながら、からかい顔にそういえば、辰はケロリとしたもので、 「さよう、雌は雌でござんしたが、あいては人間じゃねえんで、これが、じつはねこでげす」  と、すましていったものである。 「なにをいやアがる」  寝ころんだまま、なにをいうかと聞いていた佐七は、こいつはまんまといっぱいかつがれたかと、起きあがるなり、とんとキセルで灰吹きをはたいた。  四坪ばかりのせまい庭ながら、植え込みの枝ぶりもおもしろく、石の配置にもよく気がくばってあって、すみにおまつりした成田様は、先代以来の信仰とやら。毎日お粂が、お灯明に切り火をわすれないのは、商売繁盛という縁起であろうが、岡っ引きの商売が繁盛するようじゃ、あんまりありがたい世のなかというわけにはいくまい。  ところで、辰はすましたもので、 「いえ、まったくの話なんで。いままで申しそびれておりましたが、ちかごろ、あっしのなじみを重ねている女があります。じつは、その女のところで、ねこのつめを切ってやりましたんで」  と、ヌケヌケとまたいったものだから、佐七はなかばあきれながらも、いい機会だとばかりに、 「おお、そうそう、それでいまもお粂のやつと、ひともめもめたところだが、おめえもいいかげんにしねえか。いってえ、あいての女というのはどこの女だえ。北かえ、深川かえ」 「いえ、それが音羽なんで」  ときたから、佐七もいよいよおどろいた。  江戸時代には、ずいぶんほうぼうに、岡場所《おかばしょ》があったものだが、そのなかでも、根津だの、鮫《さめ》ガ橋《はし》だの、音羽だのときたひにゃ、いちばん下等な場所だったから、これは佐七があきれるのもむりではなかった。  いったい、このきんちゃくの辰というのは、寛政八年|丙辰《ひのえたつ》どしのうまれで、それで名まえも辰五郎。佐七より二つ年下だが、文化十二年佐七が二十二で売り出したとしに、縁あって親分子分の契りを結んだものだが、それ以前は柳橋で小舟乗りなんかやっていたというだけあって、ご面相は平家がにがあわをふいてるみたいで、おせじにもいい男とはいいにくいが、それはそれなりに、どこかあか抜けたところのある兄いだが、それがよりによって音羽とおいでなすったから、佐七があきれかえって、ツラを見なおすのもむりはない。  しかし、きんちゃくの辰にしてみれば、なかなかどうして、たいしたいきおいで、 「親分、ひとくちに音羽といいやすが、なかにゃずいぶん、ほりだし物がありますぜ。あっしのなんざ、親分にもお目にかけたいくらいのもんだ。ふるいつきたいほどいい女でさ」 「ふるえがでるほど、おっかないのじゃないかえ」 「まぜっかえしちゃいけません。おまえさんじゃあるめえし。ねえ、あねさん、親分はこうみえても、とんだいかもの食いでしてねえ。右の足と左の足と、ながさがちがうところが気にいったなんて。ほら、いつぞやなんども……」 「しっ、しっ、エヘン、エヘン」  と、佐七もとんだところで、タバコの煙にむせたものである。お粂はそれをジロリと見やって、フフンと鼻のさきで笑うと、 「だからいわないことじゃない、勇将のもとに弱卒なしってね。右の足と左の足のながさがちがったひにゃ、ちんばじゃないか。すると、辰つぁん、おまえさんのいい女というのは、おおかた、めっかちかみつくちじゃないかえ」 「ご冗談でしょう。あんなのは一枚絵にだって、めったにあるもんじゃありません。しかも、そいつがゾッコンなんで」 「おまえさんのほうが?」 「なにさ。向こうのほうがでさ。あっしもちかごろ、しみじみとつらいと思うことがありまさ」  と、そらうそぶいたのだから、こいつ、すくなからず心臓ものである。 「おやまあ、たいした鼻息だこと。だけど、ねこの話というのはどうしたのさ」 「おっと、そのこと、そのこと。あねさんがまぜっかえすからいけません。で、まあ、ゆうべも顔をみせてやったと思いなさい。ところで、宵《よい》のうちはやつもいそがしいから、あっしゃへやでひとり、絵草紙かなんか見ていたんで。いや、通人はこうありたきものですな。なにしろ、万事が鷹揚《おうよう》でさあね」 「いちいち注釈はつけねえで、早くしゃべっちまいねえな」  佐七はじれったそうに苦笑いしながら、やけにトントン灰吹きをたたいている。 「はい、はい、それじゃ、かいつまんで申し上げましょう。つまり、そこへはいってきたんで」 「女がか」 「いいえ、ねこでさ」 「なんだ、つまらない。いってえ、そのねこというなあ、女が飼っているねこかい」 「いえ、それがね、あっしのいくうちは、吉野《よしの》というんですが、その吉野から、ほど遠からぬところに、ごうせいな寮がありやす。あっしゃまだ、お目にかかったことはありませんが、寮のあるじというのは、院号でももっていそうな、切り髪の、すごいようにいい女だそうです。ねこというのは、その切り髮のご後室さまかなんかの飼いねこなんで。そいつがちょくちょく、屋根づたいに、女のへやへあそびにくるんです。あっしの女というのが、また、ばかにねこ好きときていましてね、いつも飯に、おかかなんかぶっかけておくもんですから、そいつを食いにくるんです。畜生のあさましさですね。家にはたんまりごちそうがあるんだろうに、ときどき、つまらないてんや物が食いたくなるとみえます。いや、こりゃ、ねこにかぎったことはない。どこやらそのへんにも、ねこに似たご仁がいなさるようだ」  と、ことばを切ってニタリニタリ。これじゃどちらが意見をしているのか、されているのか、さっぱりわからない。  お粂はせっせと針をうごかしながら、おもしろそうにくすくす笑っている。佐七はすっかり翻弄《ほんろう》されたかたちで、 「バカ野郎、つまらないことをいわねえで、早くさきをいっちまえ」 「おっと、それはさておき、あっしもたいくつなもんだから、玉よ、玉よって、しばらくねことふざけておりやしたが、そのうちに、ふらふらッとして、ちょうどさいわい、そこに手ばさみがあったもんだから、そいつですっかり切っちまったんです」 「ねこのつめをか」 「へえ」 「また、つまらないことをしたもんだな。ねこめ、おこったろう」 「いえ、ニャンともいわずに、逃げちまいました」  冗談なのか、正気なのかわからない。辰め、佐七のキセルを横取りすると、スパリ、スパリといい気になって吹かしている。  二日月《ふつかづき》金色のつめ   ——親分のような駄づめじゃねえんで  佐七はじっと、その顔をみつめていたが、これにはなにか、もっと、ふかい子細があるにちがいないと、 「辰、それで話はおしまいか」 「いえ、それが前編のおわりで、あとはつぎの巻にて読みねかし」  と、気どってトンと、灰吹きをたたくはずみに、がんくびがスポリととんでしまった。 「こんちくしょう、がらにもなく、いやに気どっていやアがるから、こんなことになるんだ。辰、てめえのタバコ入れはどうしたんだ」 「それがね、ゆうべどこかへなくしちまったんで。これも、ねこのたたりかもしれませんや。いえね、あっしもついできごころで、そんなことをしたものの、あとで考えると、ああ、罪なことをした、ねこというやつは魔物というから、なにかたたりがなければよいがと、にわかにゾッとしたと思いなさい。そこでついゲラゲラと笑ってしまいました」 「おやおや、てめえはゾクゾクすると、ゲラゲラ笑うのか」 「へえ、これが病で。ところが、そこへ、やっとあっしの女がやってきました。そいつが、なにをそんなにゲラゲラ笑っているのかと聞くもんだから、これこれこうだと、さっきのいきさつを話したところが、いや、女がおこったのおこらないの、たいへんなけんまくなんで」 「そりゃそうだろう、同類だもの」 「そうかもしれません。しかし、その女のおこりようというのが、尋常じゃありません。しなしたりな、残念なり、わが生涯《しょうがい》の目的もここに終わったり、なんてことをいって、よよとばかりに泣きむせぶんで」 「なにをいやアがる。たかがねこのつめを切ったぐらいで、おおげさなことをほざくな」 「と思うでしょう? そこが凡人のあさましさ。まあ、このつめをごらんなさい」 「なんだ、ねこのつめを、ごしょうだいじに持ってかえったのか」 「なんでもいいから、ひとつ、こいつを拝んでいただきましょうか。文句があったら、そのあとで伺いたいもんで。つめはつめでも、親分のつめみてえな、はばかりながら、駄《だ》づめじゃありませんぜ」  と、得意の鼻をうごめかしながら、ごしょうだいじに、膚守りのなかにしまってあったねこのつめを、ざらりと縁側にぶちまけたのをみて、佐七もお粂も、おもわずあっと息をのんだ。  二日の月をちらしたように、ざらりと縁側にちったねこのつめは、全部が全部とも、あたたかい日をすって、茶の新芽のように、金色にひかっているのである。 「辰、こ、こりゃどうしたんだ」 「どうもこうもありゃしません。初手《しょて》からこうして光っているんで。ねえ親分、音羽のねこは、みんな金のつめをもっているんでしょうかねえ。そうだとすりゃ、あっしゃ一手にねこを買いしめて、ひともうけしてみてえと思うですが、どうでしょう」  どこまで人をくっているのか、きんちゃくの辰め、ケロリとして、そんなことをいっている。きょうはさすがの佐七も、すっかり、子分のために翻弄《ほんろう》されているかたちである。  佐七はちらばったつめのなかから、二、三本取りあげて手のひらにのせると、じっとみつめていたが、にわかにギロリと目を光らせると、 「辰。で、そのねこの飼い主というのは、なんという女だえ。切り髪の、すごいようにいい女の、ご後室さまとかいったなあ」 「へえ、なんでもそういう話です。名まえのところはよく知りませんがねえ」 「バカ野郎、せっかくネタをあげてくるなら、なぜそこまで探ってこねえ。だが、まあいいや。どうせすぐわかることだ。ときに、おめえの女というのは、どういう女だえ」 「へへへ、お咲というんですがね。つい、さきごろ、深川から住み替えてきたという話です。深川を食いつめてきたんだろうって? め、めっそうもない。向こうでも一といって二とさがらない売れっ妓《こ》だったそうです。まったく、あんないい女が、なにを好きこのんで、音羽あたりへ住み替えたんだろうと、みんながふしぎがっているくらいでさ」  と、みなまで聞かずに人形佐七、すっくとばかりに起きなおると、 「お粂、着物をだしてくれ」 「おや、おまえさん、お出かけかえ」 「おお、少し気になるから出かけてみよう。さいわい音羽にゃ、このしろ親分がいなさるから、なにかのことは、あそこへ行きゃわかるだろう。辰、おめえもきな」 「おっと、合点だ。あねさん、すみませんが、ちょっと茶づっていきますから。なに、ようがす、じぶんでかってにやりますよ」  出かけるときくと、辰は人間がかわったように、いきいきとしてくる。お粂も佐七の着替えをてつだってやりながら、 「おまえさん、しっかりしておくれよ。ちかごろ鳥越の茂平次が、あのへんまで、羽根をのばしているという話だから、だしぬかれないように頼みますよ」 「べらぼうめ、女こどもの出る幕じゃねえ」  と、辰をつれて人形佐七が、それからまもなく手みやげさげて、やってきたのは、音羽の、このしろ親分吉兵衛の住まい。  辰も、じぶんの拾ったネタだと思うから、いい気になってやってきたが、いずくんぞしらん、ゆうべのねこが、はやおそろしいたたりをしていようとは。  殺されたお咲とねこ   ——そろそろねこのたたりが現われたか 「こんにちは。親分はおいででござんすかえ」  護国寺わきに、清元延千代《きよもとのぶちよ》という、ご神灯をかかげた細目格子《ほそめごうし》、これが、このしろ親分で知られた吉兵衛の住まいだった。  あるじのこのしろ吉兵衛というのは、佐七の亡父伝次と、杯の飲みわけをしたという兄弟分、佐七にはさしずめ、伯父筋《おじすじ》にあたるわけだが、寄る年波で、ちかごろでは、十手をふりまわすより、数珠《じゅず》をつまぐっているほうが似合おうというけっこう人。  それをまたいいことにして、ちかごろでは、浅草の鳥越へんに住んでいる海坊主の茂平次という憎まれ役が、このへんまでのさばっているのを、見てみぬふりをしていようというさばけかげん。岡っ引きというより、ご大家のご隠居といったふうな人品だった。 「おや、だれかと思えば佐七つぁん、めずらしいねえ。辰つぁんもいっしょかえ」  と、出迎えたのは吉兵衛の女房で、清元の師匠をしている延千代のお千代。 「これは、あねさん、ひさしくごぶさたをいたしました。親分にもお変わりはありませんかえ」 「ごぶさたはおたがいですよ。だが、佐七つぁん、おまえさんも地獄耳だねえ。もう、あの一件が神田まできこえましたかえ」 「えッ、なんのことです、あねさん。なにかこのへんに、かわったことがありましたかえ」  と、押し問答をしているところへ、おくから出てきたのはこのしろ吉兵衛。みると、御用のまをぬけて、飯でもかきこみにかえってきたのか、身ごしらえもげんじゅうに、腰に十手をたばさんでいるから、佐七は、いよいよおどろいた。 「おお、佐七か、いいところへきたな。ちょうどさいわい、ひとつ、おまえにも助けてもらおうか」 「親分、なにかあったんですかえ」 「人殺しよ。殺されたのはそのへんの白首、どうせ痴話のはてだろうが、これもなにかの因縁だ、ひとつ片棒かついでくれ」 「へえ、それはもうお安いご用ですが、いったいなんという女ですえ、殺されたのは……」 「吉野屋のお咲といってな、このへんじゃ、ちょっと踏めるしろものだが、そいつがゆうべ、だれかに殺されたんだ」  ときいて、佐七と辰、おもわずギックリ顔を見合わせた。そら、そろそろ、ねこのたたりがあらわれたらしいとばっかりに……。 「おめえたち、なにか、その女に心当たりがあるのかい」 「へえ、そのことなら、いずれのちほどお話をいたしますが、いってえその女が、どうしてまた……」 「どうのこうのと口でいうより、これからいっしょに出かけようじゃないか。むこうには鳥越の茂平次もきている。そうそう、鳥越とおめえとは、はだあいがあわねえという話だったな。まあ、御用に熱心なのはいいが、朋輩《ほうばい》は朋輩だ、なるべく仲よくやったがいい」  と、どこまでも、いきにさばけたこのしろ吉兵衛、その足で佐七といっしょに、やってきたのは、鼠坂《ねずみざか》ちかくにある音羽|稲荷《いなり》。 「お咲はここで殺されていたのよ」  みると、おおぜいたかったやじうまのなかに、こもをかぶったお咲の死骸がころがっていたが、そのそばに、海坊主のような男が、ひとり突っ立っている。いわずとしれた鳥越の茂平次、一名これを海坊主の茂平次という。  佐七の顔をみると、海坊主の茂平次は、まっくろな顔のなかから、ニヤリと白い歯をだして、薄気味わるい微笑をうかべた。 「おや、おや、お天気のぐあいが妙だとおもったら、お玉が池のがやってきたな。神田くんだりから、いやもう、ご苦労千万なことだ」  そういうじぶんだって、浅草から出向いたことをたなにあげている。 「おお、鳥越の兄い。なに、きょうきたのは、御用の筋じゃねえんで。ひさしぶりにこのしろの親分のところへ顔をだしたら、つきあえというわけで、ひっぱりだされたわけだ。まあ、不承してくんねえ。おや、辰、どうしたんだえ」  辰がうしろからそでをひくので、なにげなくふりかえると、辰め、なにやら妙な顔をして、しきりにこものしたを指さしている。  佐七がそのほうへ目をやると、こものしたからはみだした、お咲の足のすぐそばに、ねこがいっぴき、朱《あけ》にそまって死んでいるのである。 「辰、てめえの話はこのねこかえ」  佐七もおもわずぎょっとした。 「へえ、ちがいございません。つめを見ておくんなさい」  こもをあげて調べてみると、なるほど、そのねこには一本もつめがなかった。ついでにお咲のほうを調べてみると、ぐさりと胸をひと突き。下手人はよっぽど手練《てだれ》のものとみえるのである。いかさま、辰が自慢するだけあって、このへんには惜しいようなきりょうだった。  海坊主の茂平次はにくにくしげに、 「お玉が池の。いっておくがな、おめえ、この事件から手をひいたほうがいいぜ。下手人はちゃんとあたりがついているんだ」 「おお、そいつはけっこうだ。なにか証拠でも見つかったのかえ」 「そうよ。その下手人というのはな、ゆうべ、夜中の九ツ半(一時)ごろ、お咲のところからかえった客よ。そいつがかえりがけに、なんとか口実をもうけて、お咲をここまでおびきだしたにちがいねえ。そして、ここで待ちぶせしていて、ぐさりとひと突きよ。下手人の名もわかっている」 「ほほう。そして、その下手人の名というのは?」 「そうさ、その名というのはな」  と、海坊主の茂平次はにやりと笑って、 「きんちゃくの辰五郎というのよ」 「え、な、なんですって」  と、おどろいたのはきんちゃくの辰だ。 「鳥越の親分、冗談もいいかげんにしておくんなさい。あっしがなんで、お咲を殺すもんですか」 「兄い、そいつはなにか、まちがいじゃありませんかえ。辰にかぎって、そんなことをするような男じゃありません。それとも、なにか、証拠あってのことでござんすかえ」  おもわずつめよる佐七を、フフンと、鼻のさきでせせら笑った海坊主の茂平次、 「おお、証拠がなくて、かりにもこんなことをいうもんか。おい、辰。てめえ、このタバコ入れに、おぼえがあるだろうなあ」  いきなり、辰のまえにつきだしたのは、ゆうべ、辰がなくしたという、印伝皮のタバコ入れ。みると、べっとりと血がついているから、辰はみるみる、まっさおになった。  つめを切られたねこのたたりが、いよいよ事実となってあらわれたらしい。  かざり職人|茂兵衛《もへえ》の行くえ   ——ねこの鈴から手紙がポロリと 「親分、このしろの親分、あっしもいままで、海坊主のやりくちにゃ、ずいぶん胸をさすってまいりましたが、きょうというきょうは、我慢ができません。なるほど、女が辰のタバコ入れをにぎって死んでいたとありゃ、いちおうの詮議はしかたがねえが、海坊主のさっきのやりかたはありゃなんだ。しろうと衆のおおぜい見ていなさるまえで、いきなりの下手人扱い。あっしもかわいい子分を、あんなめにあわされちゃ、このまま引っこんではいられません。親分、お願いだ。この事件はあっしに譲っておくんなさい。どうでも真実の下手人をあげて、海坊主の鼻をあかしてやらにゃ、このままお玉が池へはかえれません」  海坊主の茂平次がむりやりに辰をひっぱっていったあとのこと、吉兵衛の家へ、いったんとってかえした人形佐七は、男泣きに泣いていた。 「おお、もっともだ。海坊主のきょうのやりくちは、投義道《もぎどう》だったな。だが、まあ、いいや。辰が人殺しをするような男でないことは、おてんとうさまもお見通しだ。海坊主だって、そのくらいのことは知っているはず。知っていながら、いやがらせをしてるのよ」 「それだから、あっしはいっそうくやしいんです。親分、それじゃこの一件はもらいましたぜ」  と、吉兵衛の宅をでた佐七が、お玉が池の家へもよらず、その足でやってきたのは深川だ。辰もいったとおり、あれほどの女が深川をぬけて、音羽のようなところへ住み替えたには、なにかふかい事情がなければならぬはずだった。佐七はまず、そこに目をつけたのである。  二、三軒たずねてあるくと、お咲がまえにいた家はすぐにわかった。釜屋《かまや》といって、そういう種類のうちでは深川でも一流だった。亭主の与兵衛《よへえ》というのは、こういう商売にも似合わぬ仏性《ほとけしょう》とみえ、佐七にきかれると、はや鼻をつまらせながら、 「お咲もかわいそうなことをいたしました。ここにいたら、あんなことにはなるまいにと、いまも話していたところでございます」 「それについて聞きたいのだが、お咲はなんだって、音羽なんぞへ住み替えたのだえ」 「さあ、それでございます。あれはごくおとなしい女でございましたが、難といえば、男がひとりついておりましたので。いえ、べつに悪い男というわけではなく、六間掘《ろっけんぼり》のくぎ抜き長屋に住んでいた、かざり職の茂兵衛というのでございますが、これがふた月ほどまえに、きゅうに、姿をくらましてしまいましたので」 「はてな。姿をくらましたというと?」 「はい、家財道具一式おっぽりだして、どっかへいってしまったんです。その当座、お咲は泣きの涙でつとめをしていましたが、きゅうに、音羽へ住みかえるといいだしたのです。わたしも、口をすっぱくしてとめましたが、どうしても思いとまりません。やむなく、思いどおりにさせてやったようなわけで……」 「だが、なんだってまた、よりによって音羽なんどへ住みかえたろう。あのきりょうなら、どこへだっていけそうなものじゃないか」 「さあ。おおかた、茂兵衛の思いののこっている深川が、いちずにいやになって、場所をえらぶひまもなかったのかと思われます」 「そうかもしれねえが、ひょっとすると、茂兵衛というのが、音羽へんにいるというような話でもきいたのじゃあるまいか」 「さあ」  釜屋の亭主与兵衛も、それ以上のことは知らないらしかった。佐七はいくらか失望したが、気をとりなおして、 「いや、大きにおやかましゅう。そのうちに、なにかまたわかったら、ご苦労でも、お玉が池まで知らせてくんなせえ」  と、釜屋をあとに、それからまもなくやってきたのは、六間堀のくぎ抜き長屋。かどにのり屋があって、そこのばあさんが、おあつらえむきの金棒ひき。 「おや、茂兵衛さんのことですかえ。ほんに、あのひとはどうしたんでしょうねえ。なにもかもそのままにして、世間じゃ神隠しだといっていますが、大家さんは大困りですよ。店賃《たなちん》はともかく、茂兵衛さんの道具がのこっていちゃ、ほかに貸すわけにもまいりませず、しかたがないから、そのままほってあるようですよ」  と、聞かれもしないことまでべらべらと。 「で、その茂兵衛というのは、いったいどういう男だ。他人に恨みをうけるような男か。それとも、うしろ暗いことがあって、にわかに身をかくしたのじゃないかえ」 「めっそうな。あの人にかぎって、そんなことはありません。それはもう、いたっておとなしい人でした」 「ふふふ、だいぶひょうばんがいいようだが、そのおとなしい男が、女を夢中にさせるのはどういうわけだえ」 「ああ、お咲さんのことでしょう。あれは、親分さん、幼なじみですよ。それに、おとなしいといったって、若い者のことですもの、それぐらいはねえ」  と、ばあさんはいたって同情にとんだ口っぷりだったが、それでも、佐七に問いつめられて、 「そうですねえ。おまえさんがそうおっしゃるから、思いだしましたが、姿をくらます少しまえのこと、茂兵衛さん、にわかに金まわりがよくなったとみえて、身のまわりなど、たいへん凝っておりましたよ。なんでも、いい仕事をひきうけたと申しておりましたが、さあ、どんな仕事ですかねえ。そのほうのことはいっこうに……」  のり屋のばあさんは、そこで口をつぐんでしまった。  それ以上は、どんなにたたいても、なにも聞けそうになかったので、そこであっさりあきらめた佐七は、それからすぐに家主《いえぬし》に案内させて、茂兵衛の家というのをのぞいてみる。  茂兵衛のうちは路地のおくから三軒め。なるほど、ふた月あまりもしめきった家のなかには、かび臭いにおいがただよっていて、戸をひらくと、いちじにうすぼこりが舞いあがった。 「茂兵衛がいなくなってから、だれもこのうちに、手をつけた者はありませんかえ」 「はい。親戚のものでもあればと思うんですが、それもございませんので、まったく、途方にくれております。もうしばらく、このまんまにしておいて、それでも茂兵衛さんがかえってこぬようだと、お上にとどけて、なんとか、らちをあけたいと思っております」  家主もすっかり当惑しているところだった。 「いや、まもなくそのらちもあきましょう」  佐七は注意ぶかい目で、家のなかを調べてみる。六畳と、四畳半のふた間きりの、その四畳半が、仕事場になっていた。  大きな仕事台のうえには、いろんな道具が散らかっていたが、佐七がふと目をつけたのは、そういう道具のなかにころがっている三つの鈴。ちょうど、ねこの首っ玉へつけるような、小さな鈴なのである。 「もし、おまえさん、茂兵衛はねこを飼っていましたかえ」 「ねこ? いいえ、どうしてでございますか」 「だって、ここにねこの鈴がありますもの」  といいながら、佐七はひとつずつ、鈴をふっていたが、やがておやと首をかしげた。ほかのふたつがチロチロとかわいい音をたてるのに、ひとつだけ鳴らない鈴があるのである。佐七ははてなと、鈴のなかをすかしていたが、やがて錐《きり》のさきで、鈴の割れめをこじあけると、なかからポロリと落ちたのは、小さくまるめた紙きれだ。  ようすありげなこの紙きれを、佐七がいそいでしわをのばすと、  今宵《こよい》五ツ半(九時)いつもの場所にて  茂兵衛より  佐七はおもわず、どきりと目をすぼめたのである。  輿《こし》の中のお銀様   ——松の枝には若い男がブラリッと  これで佐七のあたまには、ようすがあらかたわかったのだから、すぐその足で、音羽へとってかえせばよかったのである。  だが、まだもうひとつ、うなずけぬふしがあったので、あすのことでもよかろうと、その晩いったんお玉が池へひきあげたのが悪かった。  その翌日の朝まだき、表をたたく物音に、佐七夫婦は、はっとばかりに目をさました。 「親分、親分、はやく起きておくんなさい。音羽からまいりました。急用だから、ここをあけておくんなさい」 「なに、音羽から?」  がばとはねおきた佐七が、表の格子《こうし》をがらりとひらくと、男がひとり、息せききってとび込んだ。 「なんだ、おまえはタバコ屋の源助じゃねえか。朝っぱらからどうしたんだ」  タバコ屋の源助というのは、音羽のこのしろ吉兵衛についている下っ引きだ。 「どうもこうもありません。また事件がもちあがったんです。はやくきてくれと、このしろ親分からのおことづけでございます」 「よし、お粂、したくしろ」 「あいよ。ご飯は?」 「いらねえ。腹がへったら、音羽の親分のところでごちそうにならあ。源助、さあ、いこう」 「それじゃ、あねさん、ご免くださいまし。親分はたしかに、おあずかりしましたぜ」  と、宙をとぶように、やってきたのは音羽の通り。佐七がそのまま、護国寺わきへ抜けようとするのを、 「親分、こっちだ、こっちだ」  と、タバコ屋の源助がひっぱっていったのは、なんと、きのうお咲が殺されていた、音羽稲荷の境内ではないか。みると、朝霧のなかに、はや、バラバラと人立ちがしていて、そのなかに、このしろ吉兵衛の屈託顔も見えた。 「親分、ただいまはお使いをありがとうございました。してして、なにかまたここで、おっぱじまりましたかえ」 「佐七、あれを見ろ」 「へえ」  と、吉兵衛の指さす祠《ほこら》のうらがわをみて、佐七はおもわずどきりとした。  おあつらえむきの松の枝にひもをかけて、だらりと首をくくっているひとりの男。佐七はそれをみるなり、おもわずはっとしてそばへかけ寄った。 「親分、こ、これは……」 「ふむ、ただの首くくりかもしれねえが、きのうのきょうだ、ひょっとすると、お咲殺しにひっかかりがあるかもしれねえと、それで、おまえを迎えにやったんだ」 「いったい、こりゃどこの男です」 「さあ、それがわからねえんでな。ついぞ、この近所でみかけたことのねえ男だ」  みれば、その男というのは、年ごろ二十六、七の、色白の、どこかこいきなところのある若者だった。佐七はしばらくその顔をみつめていたが、なにかはっと思い当たったふうで、 「親分、あの死骸をおろしても、よろしゅうございますかえ」 「ふむ、おまえのよいようにしろ。おい、源助、おまえも、ぼんやりしてねえで、てつだってやれ」 「おっと、合点です」  佐七は源助にてつだわせて、死体を松の木からひきおろすと、ひもをとって首筋をながめていたが、 「親分、やっぱり、あっしの思っていたとおりです。こいつは首をくくって死んだのじゃありませんぜ。このひもはこんなに細いのに、首筋にゃ、ほら、こんな太いあざがついております」 「なに? それじゃ、くびり殺されたというのか」 「そうです。おおかた、手ぬぐいかなにかでくびり殺しておいて、そのあとで、ここへぶらさげていきやアがったにちがいねえ。おい、源助、おまえすまねえが、もういちど使いやっこになってくれ」 「へえ」 「深川へいってな、釜屋という子ども屋の亭主と、六間堀のくぎ抜き長屋の家主をつれてくるんだ。おおいそぎで頼むぜ。ほら、こいつがかご賃」 「おっと、合点です」  御用聞きはしりがかるくなくてはつとまらぬ商売だ。源助はしりはしょって、すぐさまかごでとんでいったが、やがて、釜屋の亭主与兵衛と、くぎ抜き長屋の家主をつれてもどってきたのは、それからおよそ二刻《ふたとき》(四時間)あまりのちのこと。日はすでにたかだかとのぼって、音羽稲荷の境内は、やじうまで、十重二十重《とえはたえ》にとりかこまれていた。 「おお、ご苦労、ご苦労、おまえさんがたにきてもらったのは、ほかでもねえ、ここにいるこの男に、おまえさんたち、見覚えはありませんかえ」  かぶせてあったむしろをとると、与兵衛も家主も、死体の顔を見るよりはやく、 「あっ、こ、こりゃ、かざり職の茂兵衛!」 「まちがいありませんね」 「はい、まちがいはございません。たしかに、茂兵衛さんにちがいございません」  ふたりのことばに佐七はにっこり。 「親分、お聞きのとおりでございます。ここに死んでいるのは、きのう殺されたお咲の情人《いろ》で、かざり職の茂兵衛という男でございますよ。お咲が音羽へ住みかえたのは、この茂兵衛のあとを追ってきたんです。茂兵衛はどっかこの近所に住んでいたにちがいございません」  と、佐七が話しているときだった。  鼠坂のうえから、ソロソロとおりてきたのは、一丁の女乗り物。音羽稲荷のまえまでくると、輿《こし》の戸をなかからひらいて、女がそっと顔をだしたが、いや、そのうつくしいこと。としは二十六、七だろう。花ならば咲きくずれた白ぼたん。それがぷっつり、緑の黒髪を切ったところが、なまめかしくもみずみずしい。  女はこのしろ吉兵衛と視線があうと、にっこり会釈して、そのまますまして行きすぎる。佐七はしばしぼうぜんとして、そのうしろ姿を見送っていたが、 「親分、あれは……」 「ふむ、あれか。あれはお銀さまといってな、番町で千五百石取りのご大身、丹波主膳《たんばしゅぜん》さまというお旗本のご愛妾《あいしょう》だったが、主膳さまがおなくなりになったので、お暇がでて、いまじゃこのうえに、住んでいなさるのだ」 「親分とは、だいぶ、ご昵懇《じっこん》のようで」 「なに、昵懇というわけじゃないが、茶の湯をするからというので、おりおり、招かれることがある。ご家人《けにん》衆もだいぶ出入りをするようだが、おれよりは、海坊主のほうがまえからのなじみで、やっこさん、だいぶ、お銀様にござっているようだ」  吉兵衛は、てれかくしにつるりとほおをなでたが、佐七は、それを聞くと、はっとばかりに顔色かえて、 「親分、こいつはいけねえ。お咲殺しの一件は、やっぱり親分と、鳥越の兄いに返上いたします。あっしも助《す》けさせてもらいますが、親分、どうかふたりのてがらにしておくんなさい。でないと、親分も兄いも、とんだかかりあいになりますぜ」  と、佐七のしんけんな顔色に、吉兵衛はあきれたように目をみはった。  鼠坂深夜の捕物《とりもの》   ——長持ちの中には小判がザクザク  その夜——おあつらえむきの五月《さつき》やみ。月も星もみえぬ鼠坂から、護国寺へかけてのいったいは、ふしぎな忍びで、ひしひしと取りかこまれていた。  つじつじのくらやみには黒衣の捕手《とりて》が、三々五々とむらがって、もし、そのみちの心得があるものがみたら、すぐなにか、大捕物があることに気づいたろう。やがて、忍びの網は、しだいにしぼられていった。そして、その中心は、いわずとしれたお銀様の寮。 「佐七、そのほうの申すことにまちがいないか」  鼠坂のうす暗がりで、半信半疑の声をかけたのは、おなじみの与力神崎甚五郎。吉兵衛と佐七の差し紙によって、急遽《きゅうきょ》、八丁堀から捕手をひきつれ、出張してきたのである。 「へえ、もう、この佐七がにらんだからにゃ、こんりんざい、まちがいはございません」 「そのことばにあやまりがなくば、これは近来にない大物だが、悪くするとあいてがあいて、どういうことになろうもしれぬぞ」 「わかっております。千五百石取りのおへやさま、まちがいがあらばこの佐七が、腹かき切っておわびするばかりです」 「よし。そのほうが、それだけいうならたしかであろう。吉兵衛、てはずはよいか」 「へえ、もう、あらかたととのっております」  このしろ吉兵衛もしらが頭に十字のたすき、ひさしぶりの大捕物に胴震いをしている。  ただこのさい、佐七が気になるのは、海坊主の茂平次のこと。茂平次にもてがらをさせようと、宵《よい》から二度三度、鳥越の茂平次のもとへ使いをだしたが、茂平次は昼間から出たきり、まだかえってこぬという。  日ごろからお銀様のもとへ、しげしげ出入りをしていた茂平次、あとになって、どんなかかりあいにならぬでもないと、佐七はそれが気がかりだったが、いないものはしかたがない。 「佐七、それではそろそろまいろうか」 「合点です」  と、佐七はしりはしょっていきかけたが、 「待て!」 「へえ、なにかまだご用で?」 「みろ、寮の裏門からだれか出てくるぞ」  みるとなるほど、鼠坂の中腹から、ちょうちんの灯《ひ》がスタスタこちらへおりてくる。足音はどうやら二、三人らしい。 「だんな、しばらくそのへんに、隠れていておくんなさい。あっしがひとつ当たってみましょう」 「よし」  三人が音羽稲荷の暗がりに、身をかくすとまもなく、ちょうちんは鼠坂をおりてきた。見ると、ふたりの男がさしにないに大きな長持ちをかついでいて、うしろにひとり、男がついている。佐七はバラバラと、そのまえに立ちはだかった。 「こう、待ちねえ、待ちねえ。その長持ちに不審がある。ちょっと、そこへおろしてもらおうか」 「なんだと」 「お上の御用で、長持ちのなかをあらためるんだ。四の五のいわずに、器用にこちらへ渡しねえ」 「おや、いやにきいたふうな口をきくと思ったら、うぬはお玉が池の佐七じゃねえか」  長持ちのうしろから、ズイと出てきた男に、佐七はあっとおどろいた。 「おお、おまえは鳥越の兄い」 「そうよ、茂平次だ。おい、佐七、おれがついてりゃ言いぶんはあるめえ。通してもらおうぜ」 「おっと。待った、鳥越の、そいつはいけねえ。その長持ちに不審があるんだ。後生だから、おまえからさきに立って、たしかめてくんねえ」  佐七はあくまで、茂平次に花をもたせるつもりだが、根性のまがった海坊主に、そんなまごころが通じるはずはない。茂平次はせせら笑って、 「佐七、てめえ、血迷ったな。フフン、きんちゃくの辰をあげられて、かわいや、佐七はのぼせたそうな。おお、いいからやってしまえ」 「合点だ」  行きすぎようとする長持ちのまえへ、ズイと立ちはだかったのは、いままでくらがりに隠れていた神崎甚五郎とこのしろ吉兵衛。 「茂平次、この長持ちはだれに頼まれてきた」 「あっ、あなたは神崎のだんな」  茂平次も、ぎょっとたじろいだ。 「いかにも拙者は神崎甚五郎だが、茂平次、きさまはだれにこれを頼まれた」 「へえへえ、じつはむこうの、お銀さまというご後室様にたのまれて、牛込の萩原様まで持ってまいりますんで、べつに怪しいものじゃございません。たいせつな茶の湯の道具だそうで、途中まちがいがあってはならぬと、付き添いをたのまれたのでございます」  甚五郎の顔色といい、吉兵衛や佐七の身ごしらえといい、茂平次もはじめて、容易ならぬけはいをかんじた。 「佐七、あけてみろ」 「へっ」  佐七は錠をぶちやぶって、長持ちのふたをとったが、とたんにあっと一同、肝をつぶした。茶の湯の道具と思いきや、なかはやまぶき色の小判がいっぱい。  佐七は二、三枚、手にとって、チャリンチャリンと鳴らしてみたが、 「やっぱりそうです。だんな、この小判はみんな、銅脈のにせ金ですぜ」 「よし、佐七、呼び子を吹け」  呼び子が夜のやみにひびきわたるとみるや、いままでかくれていた御用ぢょうちんが、あちらのやぶかげ、こちらの軒下から、ほたる火のようにワラワラと飛びちがった。 「御用だ、御用だ!」  と、お銀様の寮は大騒動。 「鳥越の兄い、わけはあとで話をする。お銀という女は、どうでもおまえの手で捕えなきゃいけねえぜ。そして、いままでおまえがあすこへ出入りしていたなア、屋敷のようすを探っていたと申し立てるんだ」 「佐七、すまねえ」  茂平次は佐七の手を握りしめると、まっしぐらに、寮のほうへととって返したのである。  岡っ引きの用心棒   ——お粂がべたぼれなのも無理はない  その夜の捕物は近来にない大物で、翌朝になると、さっそく、かわら版になって町々へくばられたから、いや、江戸じゅうは、よるとさわるとこのうわさ。  お銀というのは、山ねこという異名をもったしたたか者で、こいつが采配《さいはい》をふるって、ご家人の萩原十太夫《はぎわらじゅうだゆう》、そのほか一味十数名が、音羽の寮で、にせ金造りをやっていたのである。いわゆる銅脈というやつだが、これは、手先の器用なものでないとやれないから、かざり職の茂兵衛が、仲間にひきこまれた。  茂兵衛も遊びの金につまるところから、ついうかうかと仲間にひきこまれたが、根がおとなしい男のことゆえ、だんだんそら恐ろしくなってくる。で、それとなく、お咲にじぶんの罪を打ち明けたのだが、それからまもなく、茂兵衛の行くえがわからなくなった。  お咲はてっきり、音羽の寮へ押しこめられたのだとさとったが、おもてだって訴えれば、恋人の身にもかかわることである。  そこで、寮のすぐとなりの吉野屋へ住み替えて、それとなくようすをさぐっているうちに、迷いこんだのがお銀の飼いねこ。お咲はこのねこの鈴に目をつけた。  まえに、茂兵衛と逢《お》う瀬《せ》をせかれたとき、飼いねこの鈴のなかに手紙を封じて、文《ふみ》のやりとりをしたことがある。このねこの鈴のなかへ、じぶんがここにいることを、書いて封じておいたら、いつか、茂兵衛の目にふれることがあるかもしれない。  そんなはかないそら頼みだったが、これがまんまと成功して、とうとう茂兵衛が手紙を見つけた。  ねこは遠慮をしないから、土蔵のなかの職場へも平気で出入りをする。そのうちに、金粉がつめにまみれて、いつか金メッキのねこのつめができたというわけだが、こうしてねこをなかだちに二度、三度、手紙の往復をしているうちに、あの晩のことだ。  きんちゃくの辰が、ねこのつめを切ってはなしたから、まずいちばんに怪しんだのはお銀。そこで、いろいろねこのからだを調べているうちに、とうとう、鈴のなかにある手紙を発見したのである。  お銀はいよいよおどろいたが、そこは奸智《かんち》にたけた女のことである。鈴のなかににせ手紙を封じこんで、ふたたびお咲のへやへ追いやった。  お咲はむろん、そんなことは知らない。今夜はぬけだせそうだから、音羽稲荷のところで、待っていてくれという文面に、辰のかえったあとで、飛びたつようにやってきたのが運のつきだった。  ご家人の萩原十太夫が、一刀のもとに刺し殺し、落ちていたタバコ入れを握らせておいたのである。  しかし、こうなっては一味のものも、まくらをたかくしてはねられない。  にせ金造りはいちじ中止ときまって、さて、そうなるとじゃまになるのはかざり職の茂兵衛だ。そこでこれを絞め殺し、音羽稲荷の松の枝に、ぶらさげておいたのである。  こうしておけば、茂兵衛がお咲を殺し、じぶんは覚悟の自殺をとげたものと、世間をごまかすことができるだろうと、たかをくくっていたのだが、どっこい、佐七はさいしょから、にせ金造りの陰謀が、この事件の背後にあることを、にらんでいたのである。  そして、にせ金造りの道具をいっさい、長持ちにつめて、ほかへ移そうとするところを、あやうく取りおさえたというわけだ。  一味のものは、お銀をはじめ、萩原十太夫その他、おおかた取りおさえたが、なかにただひとり、お銀の妹で、花がるたのお勝というのが、風をくらって逃げてしまった。こいつがのちにまたひと騒動おこそうというのだが、それはまたあとのお話。 「いや、佐七、おめえがいなけりゃ、すんでのことで、おれもお銀の一味にされるところだった」  と、一件落着の後日にいたって、吉兵衛は頭をかいてにが笑いをしていた。 「ほっほっほ、いい気味ですよ。いい年をして、鼻のしたを長くしているから、こんなことになるんですよ。ねえ、佐七つぁん」  吉兵衛の女房お千代はわらっている。 「いや、なんといわれても一言もない。しかし、あんちくしょう、うまく考えやアがった。なるほど、岡っ引きがしじゅう出入りをしていりゃ、だれも怪しむ者はないからな。おれはまだいい、が、茂平次のやつこそ、いいつらの皮だ。一件者の証拠をかくす用心棒にされやアがった。まったく岡っ引きが付きそっていりゃ、いかな夜よなか、長持ちを運びだしても言いわけがたたあ。あいつこそ、鼻毛をのばしすぎやアがったよ」  吉兵衛は笑って、 「しかし、佐七。おめえあのとき、よく茂平次のやつをかばってやってくれたな。ほかの者なら、ああいうことのあったあと、なかなか、ああきれいにゃいかねえものだ」 「親分、そりゃあっしだって、鳥越の兄いにゃいいたいことがあります。しかし、それとこれとは話がちがう。もし鳥越の兄いにへんなことがあってごらんなさい、江戸じゅうの岡っ引きの名にかかわります。でも、まあ、だんなが神崎さんでよござんした。ほかのだんななら、ちょっとめんどうなことになったかもしれませんからねえ」  と、なんでもなくいってのけたから、あとで吉兵衛がお千代にむかい、 「あれだ、なあ、お千代。あの気性だから、人間が少々うわき者でも、お粂がべたぼれなのもむりはないて」  と、感嘆これをひさしゅうしたという話である。     螢屋敷  佐七のもとへ贅六《ぜいろく》の新|弟子《でし》   ——御用や御用! とへっぴり腰で 「ひとくちに岡《おか》っ引《ぴ》きなどというがな、これがまたなみたいていの修業じゃねえぜ。おれなんぞもいまでこそ、ひとかどの岡っ引きといわれ、世間から兄哥《あにい》とかなんとか立てられてはいるが、こうなるまでにゃずいぶんと年季をいれたものさ。まずだいいちに、御用を聞くにゃ眼《がん》がきかなくちゃいけねえ。つまり、目はしがはしこくなくちゃいけねえ。人間てやつはだれだって、わたしは悪人でございってつらはしてやアしねえ。どいつもこいつも、虫も殺さぬ顔をしていて、それでかげへ回ると、だいそれたことをしやがる。そこをぐいとにらんで、ひと目でこいつが悪人だと当てるぐらい眼がきいてこなくちゃ、ひとかどの岡っ引きとはいわれねえ、おれなんぞもこうなるまでにゃ、へっへっへ、はばかりながら、ずいぶんと人の知らねえ苦労をしたものさ。おめえも、どうしてもこの道で立っていきてえというなら、おれを見習って、みっちりと修業しなけりゃならねえぜ」  とくいになって滔々《とうとう》と、岡っ引き哲学をといている男をだれかとみれば、なんとこれがおなじみの、きんちゃくの辰五郎だからおどろいたはなしである。  きんちゃくの辰、ちかごろはなはだ威勢がいいが、それにはこういうわけがある。お玉が池の佐七のもとへ、ちかごろあたらしく弟子入《でしい》りした男がひとりある。  名まえは豆六といって大阪《おおさか》者だが、御用聞きが志望とやらで、音羽のこのしろ吉兵衛《きちべえ》をたよって、はるばる上方からのぼってきたのを、吉兵衛から、いま羽振りのいい佐七のもとへあずけられたのだ。  つまり、辰五郎は一躍して兄哥になったのだから、とくいになって吹くわ、吹くわ。——きょうもきょうとて、御用聞きになるには、江戸の地理にあかるくなくちゃいけないというので、浅草から山谷《さんや》、山谷から吉原《よしわら》と、どうせろくなところへは案内しない、さんざんほうぼうをひっぱりまわしたあげくの帰りみち、通りかかったのが池《いけ》の端《はた》のうすくらがり、時刻はすでに四ツ(十時)をすぎて、人通りとてないところから、みちみち、さかんに先輩風を吹かせているところである。 「それから、第二に、岡っ引きというやつは機転がきかなくちゃいけねえな。どうで世間からけむたがられる稼業《かぎょう》だ。まともにぶつかっていったんじゃ、なかなかネタはあげられねえのさ。おれなんぞは、おかげでうまれつきすこしばかり機転がきくほうだから、これでいままで、ずいぶん、親分にてがらをたてさせたものよ。それから、第三に度胸だが、こいつはおれの口からあらためていうまでもあるめえ。つまり、一に眼、二に機転、三に度胸というわけだが……」  と、ここにおいて辰、心細そうにこのあたらしい弟子の顔をつくづくながめ、 「おめえ、どうでもこの稼業で身をたてる気かえ。おれの見たところじゃ、どうもこの仕事は、おめえのがらにあわねえような気がするがなあ。音羽の大親分がなんとおっしゃったかしらねえが、悪いことはいわねえ、いまのうち、なんとか考えなおしてみたらどうだえ」  と、無遠慮にも大ため息をついたものだが、なるほど、豆六の顔をみれば、辰五郎ならずとも、いちおう、意見をしてみたくなるのもむりはなかった。  うらなり——とは、口の悪い辰がおめみえの日、ひとめ見るや即座にたてまつったあだなだが、いみじくもいったり。細く、長く、のっぺりと黄色い顔は、うらなりのへちまそっくり。鼻だけつんとたかいが、目じりがさがって、口もとがだらしなく、いつもよだれのたれそうな口のききようが、とんとバカかりこうかわからないしろものだ。  どちらかというと、横に平たいきんちゃくの辰とはいい対照で、さてこそ、 「こいつはいい。おいお粂《くめ》、ちょっと見ねえ。これでうちは、おかずには困らねえぜ。かぼちゃときゅうりとそろいやアがった」  と、おめみえの日、佐七はひざをうってよろこんだが、それを思うと辰五郎は、この弟分のうらなりづらが、いまだに恨みのたねである。  だが、豆六はもとよりそんなことはご存じなく、 「それがなあ、兄さん」  と、例によって、よだれのたれそうな甘ったるい口のききようなのである。 「おいおい、うらなり、兄さんだけはよしてくれよ。兄貴とか、兄哥《あにい》とか、ひとつ威勢よくやってもらいたいな」 「すんまへん。やっぱり口癖になってまんねん。これから気をつけまっさかいに、どうぞ勘忍しておくれやす。それではきんちゃくの兄哥」 「ほいきた、なんだえ」 「わてはな、なんの因果か小さい時分から、この稼業が好きで好きでたまりまへんねん。わてのうちは自慢やないが、大阪では代々つづいた商売で、ちょっと知られた老舗《しにせ》だす。藍玉問屋《あいだまどんや》でしてな。わてはその藍玉問屋の六男にうまれたんやが、どういうもんか、うまれつき堅気の稼業がきらいで、そらもう小さいときから、御用聞き、岡っ引きになるちゅうてな、もうずいぶん親を泣かせたり、親類をてこずらしたりしたもんや。因果な性分だんなあ」  いったい、御用聞きという稼業を、賛美しているのか、けなしているのかわからない。辰五郎は目を白黒させながら、 「ふうん、そんなもんかなあ。おまえもよほど風変わりな人間だなあ。だが、うらなり、そんならおめえ、なぜうまれ故郷の大阪で、御用聞きにならねえんだ。そのほうがかってがわかっていて、よっぽどつごうがいいと思うがなあ」 「さあ、そこだす。わてかてよっぽどそのほうが、つごうがよろしおまんねんけんど、親が承知せえしまへん。そんな極道なもんになるのやったら、七生まで勘当や! と、こない言いよりまんねん、しかたおまへんがな。そこで思いついたのがこのしろの親分や。あのおかたがお若い時分、わらじをおはきやして、しばらくうちでお世話申し上げたことがございます。その親分が、いま江戸の御用聞きでも頭株《かしらかぶ》やちゅううわさを聞いたもんやさかい、たまりまへん。矢もたてもたまらず、とんででてきましてん。わてもう覚悟はきめてます。たとえ火のなか、水の底、手なべさげても岡っ引きにならずにはおられまへん。そういうわけやさかい、兄さん——やなかった、兄哥、ひとつよろしゅうお頼み申します」  なにしろ、いうことが上方もんだけにはでなのである。  やれやれ、親分もとんだ者を背負いこんだものだと、辰五郎はじれったいやら、おかしいやら。それでからかいはんぶんに、 「しかし、うらなり、おまえ年はたしか二十《はたち》とかいったな」 「さよさよ、寛政十年|午《うま》どしうまれやさかい、兄さんより二つ年下。ひとつ、かわいがっておくれやすな」 「わっ、薄っ気味のわりい声を出すない。しかし、なあ、うらなりよ。おめえまた、どうしてそうこの稼業が気に入ったのだい」  と、きいてみると、豆六たちまちそり身になり、 「そやかて、ずいぶんええ稼業やおまへんか。あんさん、そうお思いやおまへんか。銀の十手かなにかひらめかしながら、御用! 御用!」  と、だしぬけにへっぴり腰をして、妙な声を突っぱしらせたから、辰五郎はわっと頭をかかえて、二、三歩、横へすっとんだ。 「ま、ま、まあ、待ってくれ。いいよ、いいよ、わかったよ」 「そうだっしゃろ。ほんまにええもんやな。もういちどやってみまほか」  豆六はケロリとしている。 「いいよ、いいよ、もうたくさんだ」 「なにもそないに遠慮しやらでもよろしおますがな。あんさんとわてとの仲や、景気よう、もいちどやってみまほか」  と、とくいになったうらなりの豆六が、池の端のくらがりで、へっぴり腰をいよいよ突き出し、十手をかまえるまねをしながら、 「こうだんな。あんさん、見てておくれやすや。これでよろしおますかいな。ええと——御用! 御用! そこを動きなはんなや。神妙にしくされや!」  と、頭のてっぺんから、すっとんきょうな声をほとばしらせたその瞬間、半町ほど行く手のくらやみで、とつぜんあっという叫び声がきこえたかと思うと、ドボーンと、なにやら池のなかへ落ちた物音。つづいてタタタタと大地をけって、むこうのほうへ逃げていく黒い人影があった。  そこはさすがに兄哥風を吹かせるだけあって、怪しいとにらんだきんちゃくの辰、すぐさまあとを追っかけたが、逃げ足の早いやつで、はやそのへんにすがたは見えない。 「チョッ!」  と、舌打ちをした辰五郎が、さっき水音のした池のそばへ近寄ってみると、水面いっぱいにしげったはすのあいだに、大葛籠《おおつづら》がひとつ、ぷかりぷかりと浮いている。  葛籠《つづら》の中からほたるがフワリ   ——なに、これも修業のうちだすがな 「どないしなはってん。だしぬけになにごとだす」  あとから駆けつけたうらなりの豆六、これまたいっこう物に動じない。しごくのんびりと、長い顔をいよいよ長くしてみせた。 「なにごとだすもへちまもあるもんか。あれを見ねえ。おまえにゃ、あそこにぷかぷか浮かんでいるものが目にはいらねえのか」 「葛籠だんな。だれがあんなところへ捨てていきよったんやろ。大阪にいるときから、お江戸のおひとは気が大きいと、かねてから聞いとりましたけんど、ほんまやな。葛籠をあないなところへ捨てるとは、もったいないことしよったもんや」 「ちょっ、なにをいやアがる。どこまでのんびりしてやがるんだろ。いま逃げた男がよ、この葛籠をかついでやって来たんだ。そこをおまえがだしぬけに、妙な声をあげやアがるもんだから、野郎びっくりして、葛籠だけおっぽりだして逃げやアがったんだ。どうでいわくのある葛籠にちがいねえ。おめえ、ちょっと、あの葛籠をあげてみろ」 「へえ、わてがあの葛籠をあげまんのんで」 「そうよ。てめえがあげなくてだれがあげるんだ」 「そやかて、兄さん——やなかった兄哥、あの葛籠をあげるのには、水のなかにはいらんなりまへんがな。すこし殺生《せっしょう》やな」 「べらぼうめ、さっきてめえ、なんとぬかした。たとい火のなか、水の底といったじゃねえか。こんなところで骨惜しみをするようじゃ、いい御用聞きになれねえぞ」 「よろしおま、そういわれてはあとへはひけまへん。ええ、これも修業や、清水《きよみず》の舞台から飛びおりたつもりで、はいってみまほ」  口のききかたは甘ったるいが、この豆六という男、なかなか小取りまわしのきく男で、すばやく帯をといて裸になると、ざぶざぶと池のなかへはいって、問題の大葛籠をかきよせた。 「やあ、こいつは重い、なにがはいってんねんやろ。あけてうれしや宝の葛籠か。ほら、兄哥、わたしまっせ。どっこいしょ」  と、鼻歌まじりにかかえあげた大葛籠。見るとがんじがらめにふとい綱で結ばれているのが、いよいよ尋常とは思えない。 「おお、ご苦労ご苦労、冷たかったろう、からだをふいて、はやく着物を着ねえ」  いい気なもので、辰五郎、いまはもうすっかり兄哥になったつもりだ。豆六をいたわりながら、すばやく綱の結びめを解いて、スポッと葛籠のふたをとったが、とたんに、ふたりはあっとばかりに息をのんだ。  ふたをとったとたん、葛籠のなかから、フワリフワリと二つ三つ、——小さな光りものが宙にまいあがったのである。 「な、なんだ、ほたるじゃねえか」 「ほ、ほんまにいな!」  いかにも、それはほたるだった。  葛籠のなかからまいあがったほたるは、あきれ顔のふたりをしり目に、ほのかな光をやみのなかにまき散らしながら、すうい、すういと池のはすへととんでいく。  あっけにとられて、そのあとを見送っていたふたりは、気がついたように、ふたたび葛籠のなかへ目をおとしたが、こんどこそふたりとも、ぎゃあーっとばかり、たまげるような悲鳴をあげたのである。  無理もない。葛籠のなかは、うじゃうじゃするほどのほたるなのである。そいつがごそごそ、もそもそと、ほのかな光を明滅させながら、そこらじゅうをはいまわっている気味悪さ。——だが、気味悪いのはそれのみではなかった。  そこには、もっと恐ろしいものがあった。  ポーッとほたるの光に照らされて、白い女の顔がみえる。くわっと目を見開き、びんのほつれ毛をきッと口にくわえた恐ろしい女の顔が、なにやらうすぎぬのような、薄物のなかからのぞいている。ほたるもやっぱりその薄物につつまれていて、さてこそ、とびたつこともかなわず、無数にもそもそ、もじゃもじゃと、女の顔のあたりをはいまわっている。 「な、なんだっしゃろ。あのうすい布みたいなもんは……」 「うらなり、てめえ、こわくはねえか」 「そら、こわいことはこわおます。だけど、ここでこわがったら、岡っ引きにはなれまへん。なに、これも修業や。ちょっとあの布とってみまほか」 「ふむ。てめえ案外いい度胸だ。とってみねえ」  豆六は女をつつんだ薄物に手をかけたが、 「やあ、こらあかん」 「どうした、どうした」 「兄哥、こら蚊帳《かや》やで。麻の蚊帳や。見てみなはれ、蚊帳で女のからだをぐるぐるまきにしてあるんや。えらいことをしよったもんやな。ほら、この血——」  と、まっかに染まった手を見せながら、 「蚊帳のなかで女を殺したんかしら。それにしても、おかしおまんなあ、ほたるがどうして蚊帳のなかにいよったんやろ!」 「豆六!」  とつぜん、辰五郎が胴震いをした。 「なんだす」  豆六はたいして驚いたふうもない。ケロリとしたところは、どうして、どうして、きんちゃくの辰などより、二、三枚がた役者がうわてだ。 「こりゃ、こちとらなどの手にあう一件じゃねえ。そこいらに自身番があるだろう。ひとつそこへかつぎ込もう。それから、おれは、ひとっ走り、お玉が池へかえって親分をたたきおこしてくらア。そのあいだ、おめえ、気味がわるかろうが、自身番のおやじといっしょに、この葛籠を見張っていてくれ」 「へえ、よろしおま。なに、これも修業や」  うらなりの豆六、およそこわいなんて神経は持ちあわさぬとみえて、ケロリとしている。  和泉屋《いずみや》の隠居殺し   ——こちらの兄哥より気がきくようで  寝入りばなをたたき起こされた人形佐七、いささか中《ちゅう》っ腹《ぱら》だったが、話をきいてみるとおもしろそうだ。  池の端とあらば、下谷の伝吉のなわ張りだが、発見者がおのれの身内だから、いちおう顔を出しておくのもむだではあるまいと、辰を案内に、とるものもとりあえず駆けつけてきたのは、それから一刻半《いっときはん》ほどのちのこと。むろん、伝吉もすでに自身番へ顔を出していた。 「おお、下谷の、お互いに寝入りばなをたたきおこされて、いいつらの皮だな」 「これはお玉が池の兄哥か。こいつはおまえさんの身内のものが最初に見つけたんだというが、これもなにかの因縁だろう。ひとつ手をかしておくんなさい」 「なに、おれなどがでしゃばったところで、なんの足しにもならねえが、おまえさえよかったら片棒かつがせてもらうぜ」  いちおう仁義を通じておいて、人形佐七、あらためて死骸というのを見せてもらうと、なるほど、二十三、四の水のたれそうなうつくしい女。水色ちりめんの長じゅばんに、細いだて巻きをきりりとしめて、見たところ、くろうととも見えず、そうかといって、まんざらのすっ堅気らしくもない。  いくらかはだけた胸のあたりに、ぐさりとひと突き、するどい突き傷があって、どうやらこれが致命傷。 「なるほど。で、これが問題の蚊帳だな」  死骸のそばにひろげてある蚊帳をみれば、八畳づりの近江《おうみ》蚊帳、おさだまりの藍《あい》の裾濃《すそご》にすすきがあしらってあって、そうとうの上物だが、これにべっとりと血がついているのが気味悪い。 「で、ほたるは?」 「へえ、ほたるなら、こちらにとってございます」  自身番のおやじがさしだした紙袋のなかを見ると、まだひと握りほどのほたるが、ぽーっとひそやかな光を明滅させている。 「なんだ、こんなにたくさん、はいっていたのか」 「そうなんで。いえ、もっとたくさんおりましたが、蚊帳をほどくはずみに逃げたやつもおりますし、死んだやつもかなりたくさんありました」 「兄哥、どう思う。いかに池の端の夏場とはいえ、蚊帳のなかにどうしてこう、たくさんのほたるがはいっていやアがったんだろうなあ」 「さあてね」  そいつは佐七にもわからない。首をかしげながら人形佐七が、紙袋からつまみ出してみると、どれもこれも源氏ぼたるの大きなやつである。ちょっと江戸の近辺では見られぬほたるである。  佐七はしばらく首をかしげていたが、 「ときに、下谷の。女の身もとについてなにかあたりがついたかね」 「兄哥、そいつはぞうさねえのよ。この近辺のものなら、だれだって、この女を知らぬものはねえ。なにしろ、これほどのいい女だ。こいつはむこうの池の端に住んでいるおかこい者で、名はたしかお俊《とし》とかいったっけ。なあ、じいさん、そうだったな」 「へえ、へえ、さようでございます。みなさんもご承知でしょうが、黒門町にある和泉屋《いずみや》さんという生薬屋《きぐすりや》のだんなのおめかけなんで」 「なに、黒門町の和泉屋?」  と聞いて、佐七がおもわず目を光らせたのにはわけがある。  下谷の伝吉もうなずいて、 「そうよ、兄哥はものおぼえがいいなあ。おれも去年のあの一件から、尾をひいているんじゃねえかと思っていたところだ。しかも、場所もおんなじだ。この女のかこわれていた家というのが、ほら、去年隠居殺しのあった家よ」 「ふむ、こいつ、よっぽどこみいっているな」  佐七がおもわずうなったのもむりはない。  和泉屋の隠居殺し、これには佐七は直接あずからなかったが、当時評判の事件だったからいまだに記憶になまなましい。  黒門町にある和泉屋という生薬問屋、奉公人が十五、六人もいようという大身代だが、先代の喜兵衛《きへえ》というのが数年まえになくなって、あとには、後家のお源と、先代の甥《おい》にあたる京造という若者のただふたり。  京造は二十五、六、で喜兵衛夫婦に子どもがないところから、幼少のころより、養子分として育てあげられたのだが、さいわい気性もよし、商売にも熱心だし、それに金兵衛《きんべえ》というしっかりした番頭もついているので、お源もすっかり安心して、喜兵衛がみまかったのちは、店はふたりにまかせっきりで、じぶんはこの池の端に気に入った家を建て、なくなった夫の念仏ざんまいに日をおくっていた。  ところが、去年のちょうどいまごろのことである。ある日、お源が隠居所で、むざんにも手ぬぐいでしめ殺されているのが発見されたのである。  お源はしっかり者だから、店は養子の京造にゆずったとはいうものの、身のまわりの用意として、かなりの大金を隠居所にたくわえていた。  おそらくその高は千両をくだるまいといわれていたが、その金がお源の死と同時に、消えてしまったのである。  ところがそのじぶん、京造の身持ちについて、ちょっとよからぬうわさがたっていた。  りちぎなようでもそこは若者、ましてや京造はひとり身のこととて、養母が隠居所へ引きうつってからというもの、いつしか遊びの味をおぼえそめて、そのじぶん、柳橋あたりで、だいぶ羽根をのばしているという評判だった。  これがお源の耳にはいったからたまらない。そフじぶん、とかくふたりの仲がしっくりいかない。おまけに遊びの金にはつまるならい。店をゆずられたとはいうものの、そこには先代ゆずりの石部《いしべ》金吉、四十男の金兵衛が、がっちりと土蔵のかぎをおさえている。それやこれやで、京造がひょっとすると——と、口さがないは人の常、そんなうわさがそのころとんだ。  むろん、そのうわさはお上の耳にもはいったから、当時、京造はきびしい吟味をうけたが、うまいぐあいにちょうどそのとき、べつに犯人があがったのである。まったくあぶないせとぎわだった。この犯人のあがるのがもうすこしおそかったら、京造はあやうく養母殺しの大罪におちるところだった。  さて、犯人だが、これは信州|辰野《たつの》うまれの小間物屋で、彦三郎《ひこさぶろう》というしがない行商人。お源の隠居所へしげしげ出入りをするうちに、いつしかお源に目をかけられ、ときどき、商売の元手の融通をうけることなどもあった。  お源が殺された日なども、例によって融通をたのみにいったということだが、捕えられたとき、五十両という大金を彦三郎が身に持っていた。かれのことばによると、ご隠居さまから借りたのだということだが、なにがなんでも請け人なしに、しがない行商人ふぜいに五十両という大金を用だてようとは思われない。  それに、のがれぬ証拠というのが、お源の首をしめた手ぬぐいだが、これが彦三郎のものとあっては、もうどんなに弁解しても追いつかなかった。  ふつうならばむろん打ち首だが、幸か不幸か、そのときご公儀にご慶事があったので、死一等を減じられ、八丈島へ島送りになった。  こうして、この一件はかたがついたのである。  池の端の隠居所は、それきりしばらく住み手もなく、無住の家として近所から恐れられていたが、そこへこの夏のはじめごろからかこわれたのが、いま自身番の床につめたい死骸となってよこたわっている、このお俊という女。  京造も京造だが、女も女——まんざら知らぬわけもあるまいに、よくもあんなおそろしい家に住んでいられると、このかいわいでは、もっぱら評判だったが、はたして今夜のこの仕儀だ。 「それでなにかえ、女の前身は芸者かえ。まさか、ずぶのしろうとじゃあるめえな」 「ところが、兄哥、こいつはこの春ごろ、和泉屋へ住みこんだ女中ということだぜ。見らるるとおり、ちょっと渋皮のむけているところから、住みこむとすぐ、京造のやつが手をだしやアがって、ほかの奉公人のてまえもあるところから、因果をふくめて隠居所へうつしたということだ。むろん、京造のやつがときどき会いにくるようだが……」 「よし」  と、立ちあがった人形佐七、 「とにかく、夜の明けねえうちに、その隠居所というのをのぞいてみようじゃないか。なにかまた見つかるかもしれねえ。辰、てめえも来い」  といってから、にわかに思いだしたように、 「ときに、辰や、豆六のやつはどうした。ここで待っているはずじゃなかったかな」  尋ねられて、辰五郎もきょときょとしながら、 「親分、あっしもさっきから、気にしていたところですが。ちょっとじいさん、おれといっしょに葛籠をかつぎこんだ、うらなりみてえな男はどうしたえ」 「へえ、あのひとなら、ひと足さきへ隠居所へいきましたぜ」 「なんだと、隠居所へ?」 「へえ。なにね、あっしがこの女の身もとをおしえてやったら、そんならすぐに探ってくるといって出ていきやした。ことばつきは悠長《ゆうちょう》だが、へっへっへ、あれでこちらのにいさんより、よほどからだが動くようでございますねえ」  ぐいと辰五郎のほうへあごをしゃくってみせたから、いや、辰五郎め、おこったのおこらぬの。——まだ駆けだしのほやほやの、豆六よりも劣るといわれちゃ男がたたぬ。  おのれ、こんど豆六をつかまえたら、こっぴどくやっつけてやらねばならぬと、むしゃくしゃ腹で隠居所までやってきたが、意外や、目当ての隠居所にも豆六のすがたは見えなかった。  帰ってこない豆六   ——腹がへって目がまいそうにござ侯《そうろう》  いや、その晩のみならず、それから二日《ふつか》たっても三日たっても、なしのつぶてで、豆六はお玉が池へかえってこないのである。  佐七と下谷の伝吉、きんちゃくの辰五郎の三人は、その晩、池の端の隠居所へ手を入れてみたが、犯行がそこでおこなわれたということをつきとめただけで、べつにたいした獲物はなかった。  お俊はいつものへやで、蚊帳をつって寝ていたところを、なにものかに殺されたのだろう。座敷のなかにもべっとりと血のりの跡がのこっていたが、あいにくその晩は、女中のお辻《つじ》というのが宿下がりをしていたので、下手人のめぼしのつけようもない。  むろん、京造も呼びだされたが、これはその晩、黒門町の本宅から、一歩も外へ出なかったのがわかったので、すぐかえされた。  京造も犯人の心当たりがないという。まして、あのおびただしいほたるだが、それがどうしてお俊の蚊帳のなかにあったのか、考えようもないという。  こうしてはや、あの晩からかぞえて三日め。—— 「おまえさん、それにしても豆さんはどうしたんだろうねえ。音羽の親分さんから、あれほどこんこんと頼まれているのに、もしものことがあっちゃ、あたし親分にあわせる顔がない」  と、お粂《くめ》がしきりに気をもむのもむりはない。 「てめえにいわれなくたってわかってるよ。あんちくしょう、ろくすっぽ江戸の方角もわからねえのに、いったいどこへ行きやがったんだろ」  と、佐七も額にふかいしわをきざんだ。 「ねえ、親分、ひょっとすると、あの野郎、ひょっとするとひょっとして、ひょっとするとひょっとじゃありませんかえ」  辰五郎、しきりにわけのわからぬことをいっている。 「ひょっとすると、どうしたというんだ」 「なにね、わけもわからねえのに踏み込みゃアがって、反対にバッサリ——いまごろはどこかで、目をつむっているんじゃありますまいかえ」 「まあ、辰さん、なにをおいいだえ、つるかめつるかめ。縁起でもないこと、いわずとおいておくれ。それでなくてさえ、あたしゃ夢見がわるいのに」 「あっしだってこんなことはいいたくねえが。ああ、ああ、しまったなあ。あんとき、あっしがあとへ残りゃよかったのに——」  と、人のいい辰五郎、このあいだの恨みも忘れて、目に涙をにじませていたが、と、このとき、がらりと格子《こうし》をひらいて、とびこんできた男がある。 「人形佐七親分さんのお宅はこちらでしたっけ。手紙をことづかってまいりました。へえ、豆六さんとかおっしゃるかたからなんで——」 「な、な、な、なに、ま、ま、豆六!」  とんで出た辰五郎が、ひったくるようにして受けとった手紙を、開く手もおそしと、額をあつめて三人が読んでみると、  一筆しめしまいらせ侯。わたしことこのあいだの晩より飲まず食わずで、ひとりの女のあとをつけ申しおり侯。腹がへっていまにも倒れそうにござ侯。この文《ふみ》お読みのうえは、使いの者といっしょにすぐ来てくだされたく侯。ここがどこやらわたしにはいっこうわかり申さず、使いの者にお聞きくだされたく、かならずかならず相待ち申しあげ侯。  いまよう千松こと豆六より  人形佐七親分さま  いや、まことにあっぱれな名文だが、三人はそれを読むなり、あっとばかりに肝をつぶした。 「よし」  佐七はきッと立ち上がり、 「お粂、したくをしろ。それから、おまえさん。おまえさんはどこからおいでなすった」 「へえ。あっしゃ堀《ほり》の伊豆長《いずちょう》という船宿の若いものでございますが、さきほど、その豆六さんというかたが、ころげるようにはいってきなすって、親分さんにこのお手紙をことづけてくれとおっしゃいまして。——もしや、あのかた、あのまま死ぬのではございますまいか」 「なに、それほど弱っているのかえ。まあ、そんなことはあるめえが。お待ちどおさま。じゃ、すぐ案内しておくんなさい。おい、辰、おめえも来い」  したくもそこそこにとびだしたふたりが、やって来たのは堀の伊豆長。なるほど、見ればそこの帳場わきに、豆六がうらなりの顔をいよいよあおく、長くして、目さえすっかり落ちくぼませ、まるで虫の息のていたらくだ。 「おお、豆六、達者でいたか」 「ああ、親分さん。兄さんもよう来とくれなはった。わてはもう、わてはもう……」  と、豆六は手ばなしで泣きだしたのである。  聞いてみると、豆六は、あの晩、池の端の隠居所へようすをさぐりにいったが、と、そのとき、こっそり、なかから忍び出た女があるという。豆六、これこそ、くっきょうの獲物なれとばかり、それからあとをつけだして、二日二晩、ほとんど飲むものも飲まずに、あとをつけていたというのだ。 「べらぼうめ」  辰五郎はいきなりどなりつけた。 「子どもじゃあるめえし、てめえもよっぽど、どじ[#「どじ」に傍点]じゃねえか。それならそうと、なぜひとこと知らせてよこさねえのだ」 「そやかて、そやかて、わてには江戸のようすがかいもくわからしまへん。うっかりしていて、逃げられたらどもならんと、わてはもういっしょうけんめいで、夢中になってつけてましてん。ああ、しんどかった。安心したら、きゅうに腹がへってきよった」  豆六、いうだけのことをいってしまうと、重荷をおろしたようにケロリとしている。よっぽどこの男、神経の太いたちにちがいない。 「いや、むりもねえ、わかった。わかった、よくやった。で、てめえのつけている女というのは、いったいどこにいるんだ」 「へえ、その女なら、むこうの舟宿にかくれてまんねん。あ、あそこへ出てきよった。親分、あの女だす」  豆六が夢中になって叫びだすのを、しっ、とおさえた人形佐七が、きッとひとみをさだめてみると、伊豆長の真向かいにある舟宿|三吉屋《みよしや》から、いましもひとりの女がすたすたと川のほうへおりていく。  どうやら舟に乗るつもりらしい。  としは二十《はたち》よりすこしまえだろう、顔かたちはなかなかととのっているが、着物の着こなし、物腰かっこう、どうみても、舟宿から舟を出すがらじゃない。きのうかおととい、いなかから出てきたばかりといった山出しである。 「あの女かえ、豆六、ちがいあるめえな」 「ちがいおまへん。あいつのために、わては二日二晩、飲まず食わずでひっぱりまわされましてん。ても恨めしいあの女め、どうして忘れるもんですか」 「よし、若い衆、すまねえが、こちらでもひとつおおいそぎで舟のしたくをしておくんなさい。当たって砕けろだ。辰、あの舟をつけてみようじゃねえか」  と、すばやく舟にとび乗れば、そのとき、向こうの舟宿でも、いましも怪しい女をのせた舟がギイとこいで出るところだ。 「親分はん、待っておくれやす。わてもいきます。なに、かまえしまへん。なんの二日や三日食べえでも、死ぬようなこの豆六やあらしまへんわ。いよいよ、捕物《とりもの》やな、見てておくれやすや。御用、御用、へっへっへ、どんなもんや」  と、豆六はたいした張りきりようである。  やがてこちらのしたくもできた。二隻の舟は約小半町ほどおいて水のうえをすべっていく。やがて船は堀《ほり》から大川へ出た。ふしぎないなか娘は、じっと首をうなだれたまま、舟底へべったりとすわっている。  どこか寂しげな、憂えはしそうな表情で、船頭がおりおりことばをかけるらしいが、それにもろくろく答えない。 「なるほどなあ、兄さん、いつかあんさんおっしゃったとおりやなあ、あんな虫も殺さぬ顔をしていて、人殺しなんて恐ろしいことがようできたもんやな。あてもよっぽど修業せんと、眼《がん》とやらがきくようにはなれまへんわ」  と、豆六しきりに感嘆している。 「辰、てめえ、豆六に何かおしえたのかい」 「いえ、なに、へっへっへ」  辰五郎、いまさらきまり悪そうに、首をすくめて笑っている。  そのうちに、まえの舟は代地|河岸《がし》のへんで、しだいに岸へよっていくから、さてはあそこからあがるのかと、なにげなく岸を見て、佐七と辰五郎のふたりは、おもわずあっとおどろいた。  近づく舟を待つように、おりからの夕やみの岸に立っているひとりの男——それはまぎれもなく、和泉屋の主人京造ではないか。 「辰、顔を伏せろ——」  ふたりはさっと舟底に身をふせたが、そんなこととは知らぬ京造、舟が近づくと、なにやら女とふたことみことかわしていたが、やがてひらりと岸へあがる船頭と交替に、京造が舟のなかへとびうつった。 「おやおや、船頭を岡《おか》へあげてどうするつもりだろう」  と、見ているうちに、京造と女はなお、ふたことみこと押し問答をしていたが、やがて京造が竿《さお》をおすと、舟はギイと岸をはなれて、ゆらゆらと河心へと流れていく。 「おや、こいつはお安くねえぞ。あの女、とんだ食わせものだ。水の上のあいびきとはたいしたものだ。船頭さん、たのむ。なるべくあの舟のそばから離れねえようにな」 「合点です」  と、船頭も心得たもの、むこうの舟からつかず離れず、たくみにそのへんを流している。だがこれはたいしてむずかしいことじゃなかった。女の舟は河心にとまったきり、水の流れにまかせて動いているだけなのだ。  見ると、京造と女とは、舟底でむかいあって、しきりになにか話している。だいぶ複雑な話とみえて、おりおり、争うような身振りがはいる。あたりはだんだん暗くなってきた。  と、このときだ。なにやら女が叫んだとみるや、いきなりさっと手を振ったが、とたんに、 「あ、あ——人殺しだア!」  と、京造の声。 「しまった。それ、船頭、やってくれ」  見ると、舟のなかにすっくと立ちあがった女の手には、きらりと白い刃《やいば》が光っている。この白刃《しらは》がふたたびさっと虚空におどれば、 「ち、違う、お町さん、そ、それはおまえの勘違いだ。これお町さん、疑い晴らして。——あ、あ、だれかきてえ」  よろよろと舟底によろめく京造、これを見るや、豆六のやつがとたんにまた、胴間声を振りしぼった。 「御用や! 御用や! そこを動くな! 神妙にしていくされや」  女はそれを聞くと、ギクリとこちらを振りかえったが、もうだめだと観念したのか、いきなりさっと水のなかへからだをおどらせた。と、京造、急所の手傷にめげず、ふなべりから身を乗り出して、 「あ、その女を助けてえ。——こ、こちらはだいじょうぶ、その女を助けてやってください」  聞くなり辰五郎は、ざんぶとばかり、水のなかへおどりこんだのである。以前このへんの舟宿で、船頭をやっていたきんちゃくの辰、泳ぎはとくいちゅうのとくいである。  彦三郎《ひこさぶろう》とお俊とお町   ——このお娘ごはお俊の妹じゃそうで  女はかなりの水を飲んでいたが、さいわい手当がはやかったので、命にはべつじょうないようすだった。また、京造もふた太刀《たち》ほど、わき腹をえぐられていたが、どうせ女の細腕のこと、これまた命にかかわるようなことはなかった。 「親分さん、お、お願いです。このこと、だれにもないしょで……その女がかわいそうです。お町は勘違いしているのです。いまにわかります。はい。いまにわかります」  京造は若いに似あわぬ気丈者で、救われると、みずからさしずして、お町もろとも、池の端の隠居所へかつぎこまれた。 「いいえ、黒門町へ知らせてはいけません。騒ぎが大きくなれば、この女がどのようなおとがめを受けようも知れず、そ、それがふびんとおぼしめしたら、どうぞないしょで……」  どうもわからない。  京造はあやうく殺されかけながら、あくまで、女をかばおうとするようす。女といえば、いまはもうすっかり水を吐いて、たださめざめと泣くばかり。 「和泉屋さん、そりゃ、黙っていろとおっしゃれば、黙ってもいましょうが、しかし、それはいったいどういうわけです。あっしも十手をあずかっている身の上、これだけの大騒ぎをさせながら、ただ黙っていろとだけじゃ、どうにもねえ」 「ごもっともでございます」  京造は苦しい息のうちにも、礼儀ただしく手をつかえ、 「お玉が池の親分さんは、おなじ御用聞きのお仲間でも、人情にあつい、よくもののわかったおかたとやら。そこを見込んで、わたしの知っているだけのことはお話しいたします。足らないところは、あのお町さんからお聞きくださいまし」  京造はじっと女の横顔を、あわれむようにながめながら、 「親分さん、うそとおぼしめすかもしれませんが、わたしもついさきほどまで、このひとを知りませんでした。いいえ、会ったこともなければ聞いたこともないまったくの他人。ところが、さきほど、これ、このような、お俊のことでぜひ話したいことがあるという手紙を堀の舟宿からくれまして、それでわたし、ふしぎに思いながらも、ふびんなお俊のこと、なにか手がかりがあろうもしれずと、手紙のさしずどおり代地河岸で待っていたのです。この人に会ったのはそのときがはじめてでしたが、でも、舟のなかで話をきいて、すぐにわかりました。親分さん、この娘は、ついせんだって殺された、あのかわいそうな、お俊の妹じゃそうにございます」 「え? お俊の妹……」 「はい、お町というのだそうで」 「そのお町さんが、なぜまたおまえさんを殺そうとしたんだ」 「それが、お町さんは勘違いしているのでございます。お俊を殺したのはかくいうわたしだとばかり思いこんで。いいえ、お俊ばかりではない、昨年殺されたわたしの養母お源、あれを殺したのもやっぱりわたしだと思いこみ、姉と兄のかたきを討つつもりだったのでございます」 「なに、兄とは」 「はい、わたしでさえちっとも知りませんでしたが、お俊は去年、わたしの養母を殺したかどで、八丈島へ送られた彦三郎さんの妹だそうでございます」  ほっとため息つくようにいう京造のことばに、お町はとつぜん泣きくずれた。この意外な事実に、さすがの佐七も、おもわずあっと舌を巻いたのである。  京造さえも知らなかった、お俊にそんなかくしごとがあることを。  ——お町の話によると、こうである。  彦三郎、お俊、お町の三人は信州辰野のうまれ。彦三郎はお六ぐしの行商で江戸へ出たのが縁になり、その後しだいにとくいもふえ、江戸にいくつもりで、こまかいながらもしだいに手をひろげていったが、そのうち起こったのが去年のあの災難。  彦三郎はあわれにも、お源殺しの下手人として八丈島へ送られた。故郷にいてそれを聞いたお俊とお町、どのように嘆き悲しんだろう。  ふたりはどう考えても、兄がそんな恐ろしいことをするひととは思えなかった。そこで、姉のお俊がことしの春、ようすをきくつもりで江戸へ出てきたが、人づてにきくと、どうも京造があやしい。そこで、近寄って気長に詮議《せんぎ》するつもりで、つてを求めてうまいぐあいに和泉屋へ住みこんだが、かたきとねらう男は意外にもやさしいひとだった。  お俊は、兄に悪い、妹に悪いと、心に責められながらも、いつしか京造とわりない仲になってしまったが、そのうち、朋輩《ほうばい》の口がうるさいので、池の端の隠居所へかこわれることになった。  ふつうの女ならば、おじけをふるっていやがるところだが、お俊にはこれこそもっけのさいわい、なにかひとめにつかぬ手がかりが、この家のなかに残っておりはせぬかと、ひそかに探索していたらしい。 「それが、それが、あんなことになってしまって……」  と、お町はよよとばかり泣きむせぶのだ。 「なるほど、それはきのどくな話だ。兄といい、妹といい、よっぽど不運なまわりあわせだが、しかし、お町さん、おまえさんはいつ江戸へ出てきなすった」 「はい、姉が殺されたあの夕がたでございます。姉ではらち[#「らち」に傍点]があかぬので、業《ごう》を煮やして出てきたのでございますが、旅のつかれでぐっすり寝込んでしまったのがわたしの不覚、おなじ家のなかで、ねえさんが殺されたのも知らずして……」  夜中にお町が目をさますと、姉がいない。しかも、そこは血だらけである。恐ろしくなってお町は夢中でとび出したのだが、そこを豆六に見つけられ、あとをつけられたというわけだ。  なるほど、お町も江戸ははじめてだった。どちらも江戸になじみのうすいお町と豆六、このふたりが追いつ追われつしていたのだから、これではふたりとも、飲むひまも食うひまもなかったにちがいない。お町は逃げまわっているうちに、読み売りのかわら版で姉の殺されたことを知り、それを京造のしわざと思いこんだのである。あとで聞くと、お町は豆六をいちずに京造のかたわれと思いこみ、夢中で逃げまわったあげく、わけもわからずに舟宿へとびこんだというのである。 「ほほう。すると、あの晩、おまえさんはこの隠居所にいなすったのか。それではおまえさんに聞けばわかるだろうが、お俊さんの蚊帳のなかにあったあのほたる、ありゃいったい、どうしたのですえ」 「はい、あのほたるなら、わたしがみやげに、くにから持ってきたものでございます」 「なに、くにから?」 「はい、わたしのくにの辰野というのは、むかしからほたるの名所。姉がかねがねほたるをなつかしがっておりましたゆえ、みやげに持参したのでございます。姉はたいそう喜んで、寝るときも、それを蚊帳のなかにはなって興じておりました」  なんだ、そんなことだったのかと、さすがの人形佐七も、すくなからず拍子抜けのていだったが、いやいや、そうではない。  このほたるこそ、お俊殺し——ひいてはお源を殺した下手人を、白日のもとに照らし出すみちしるべになったのだから、因果はあらそわれないものだった。  というのは、一同がこんな話をしているおりしもあれ、一陣の風がフーッと吹きこんで行灯《あんどん》の灯《ひ》をふき消した。が、そのとたん、一同はあっと息をのみこんだ。  まっくらになったへやの一隅《いちぐう》から、なにやらチラチラ、ほのかな光が漏れてくる。  おやと、ひとみをこらしてみれば、床の間の壁のすきから、二つ、三つ、四つ、チラリフワリと漏れてくるのは、まぎれもなくとびかうほたる火。  どうやらこの床のむこうにすきまがあって、そこへほたるがまぎれこんでいるらしい。  だが、それにしても気味悪く、一同は幽霊でも見たように、このほのかに明滅する光を見ていたが、とつぜん佐七が立ち上がって、つかつかと床の間へかけのぼった。 「みなさん、みなせえ。この床の間の壁は動きますぜ。ほら、ほら。この壁になにやら仕掛けがあるらしい。あっ!」  と、佐七がとびのいたとたん、がらりと壁がどんでん返し、横へさっと開いたと見るや、そのとたん、壁の背後から、思いがけなく、 「うわっ!」  というひとの悲鳴だ。 「辰、あかりだ。あかりを持ってこい」  言下に辰がふたたびともした行灯の灯を、さげてつかつか近づいてみれば、床の間のうしろは二畳敷きぐらいの空間になっていて、そこに、盗まれたはずのお源の小判に埋もれて、ひくひくと断末魔の痙攣《けいれん》をしているのは、まがうかたなき番頭|金兵衛《きんべえ》。舌かみ切って、あごのあたりに血がいっぱい。  ——そのものすごい顔のうえを、ほたるが二つ三つとんでいるのである。——  魔がさした石部《いしべ》金吉   ——一に眼、二に機転とはほんまやな  お俊殺し、ひいてはお源殺しの下手人も金兵衛だった。  お源がこういうかくし場所をしつらえて、金をたくわえていることをひそかに知った金兵衛は、彦三郎の手ぬぐいでお源を殺し、まんまと首尾よくその罪を彦三郎におっかぶせたばっかりか、さいわいだれもこの床の間のおくの秘密に気がつかぬのをよいことにして、ときどきやってきては、小出しに金を引き出していたのだが、そこへお俊が住み込むにおよんで、金兵衛の計算は大きく狂ってきた。  お俊も殺され、金兵衛も舌かみ切って死んでしまったいまとなっては、お俊殺しの真相は知るよしもないが、あの晩、金兵衛はお俊をくどいて仲間にひっぱり込もうとしたのか、それとも、はじめからお俊を殺そうとして忍んでいったのか……。  いや、いや、ああして葛籠《つづら》を用意していっているところをみると、金兵衛ははじめから、お俊を殺すつもりだったのだろう。お俊を殺して葛籠づめにして、不忍池《しのばずのいけ》の底深く沈めてしまえば、世間ではお俊が情夫《おとこ》でもつくって、出奔したのだろうと思い込むだろう。そうしたらあの隠居所ももういちどあき家となり、おのれの出入りも自由自在。そこが金兵衛のねらいだったのではないかといわれている。  ただ、ここに不思議なのは、あの秘密の金のかくし場所に、ほたるが二、三匹迷いこんでいたことである。  佐七はそれについて、こう解釈をくだしている。  まんまと首尾よくお俊を殺したものの、そのお俊もここにいるあいだに、あのかくし場所を発見して、少しは金を持ち出しているのではないかと、そこが下素《げす》の根性で、いちおう秘密のかくし場所をひらいて、なかを調べてみたのではないか。そのとき蚊帳からぬけだしたほたるが二、三匹迷いこみ、それがけっきょく命取りになったのではないかと。  金兵衛も、お俊の蚊帳におびただしいほたるがいたのにはおどろいたにちがいないが、そんなことを、ふかく考えているひまはなかったにちがいない。と、いって、そのほたるを放ってしまうわけにはいかなかった。そんなことをすれば近所の疑惑をまねくは必定。そこでほたるごと池の底へ沈めるつもりだったのだろうが、ここに哀れをとどめたのはお俊である。  久しぶりにたずねてくれた妹のお町を、お俊はせめてつぎの間へでも寝かせておけばよかったのである。しかし、ひょっとすると夜おそく、だんなが会いにきてくださるまいものでもないと思ったお俊は、そのときのことをおもんばかって、お町を遠くはなれた女中のお辻《つじ》のへやへ寝かせたのである。  そこならは、京造とのあいだに操りひろげられる、どのようなあられもない睦言《むつごと》から発する女の絶叫や、男女の合唱も、とどかぬことになっているはずなのだ。そこいらにも、男にほれた女の心のあわれさを物語っており、ひそかにその間の事情を察した佐七は、お俊をふびんと思わずにはいられなかった。  京造はのちに佐七にうちあけたというが、先代の没後、帳面にそうとう穴があいていた。それが金兵衛のしわざだと知ったとき、お源は激怒して、暇を出すの、縁を切るのという騒ぎがあった。そのときは金兵衛も平あやまりにあやまり、京造もあいだへはいってわびをいれ、お源はお源で、金兵衛のしらくも頭時代いらいの忠勤にめで、いちじのでき心といったんは許し、こういう騒ぎのあったことも、この三人以外に知らなかったという。  その後、さすがに金兵衛もお店の勘定に手ちがいはなかったが、そのかわりに、お源のためこんだ老後のためのへそくりに目をつけたのではないかといわれている。  こういうことは、よくよく綿密に調査してみないとわからないもので、一見石部金吉みたいな金兵衛だったが、家にいる女房子どものほかに、親子ほど年のちがうかくし女があったらしいといわれている。しかし、そこを追及していくと下谷の伝吉の名折れになるので、佐七がよいかげんに探索を打ちきったのをよいことにして、その女は金兵衛からしぼりとったあり金さらって、ドロンをきめこんだというが、いや、金兵衛こそ、中年にして身をあやまった男の見本といえよう。  手負いの京造とお町がかつぎこまれたとき、おりからそこへ、金をとり出しにしのびこんでいた金兵衛、出るに出られず、あげくのはてに秘密の場所をかぎあてられ、進退ここにきわまって、舌かみきって死んだのだろう。  こうしてお源殺しの下手人がわかってみれば、彦三郎はむろんのこと無罪放免、その後、京造の出資で江戸で小間物店をひらくことになったが、ふしぎなのはお町と京造で、お町もいったんは京造を、兄姉のかたきとして殺そうとしたほどだったが、縁は異なもの味なもの、一件落着後まもなく、和泉屋の嫁にむかえられたという話である。 「ほんまやなあ、兄さん。親分があの壁のうしろに目をつけなはったんはえらい眼《がん》や。一に眼、二に機転、三に度胸——ほんまにえらいもんだんなあ」  これでどうやらお玉が池に、役者が四人そろったようである。  豆六入門が文化十四年の夏五月。その翌年の四月二十二日に文政と改元されて、これが天保と名まえがあらたまるまで約十三年。これが世にいう文化文政時代である。  上《かみ》には五十余人の子女をつくったという、無類の好色将軍|家斉《いえなり》をいただき、江戸文化も爛熟《らんじゅく》期をとおりこして、そろそろ退廃期にむかいつつあった時代のことだから、したがって世相百般も百鬼夜行。腕のある岡っ引きならいくらでも腕の見せ場のあった時代だ。  このときに当たって神田お玉が池の人形佐七が、いささか悋気《りんき》ぶかいが玉に傷だが、そのかわり貞淑なことにかけてはこのうえもないといううえに、いたって機転のきくお粂というよき女房と、そそっかしいことはそそっかしいが、根気のよいことにかけては無類といわれるきんちゃくの辰と、顔も長いが気もながいが、それでいて妙に目はしのきく豆六という三人をあいてに、繰りひろげていく奇妙きてれつ、奇々怪々な捕物《とりもの》話のかずかずを、秋の夜長のつれづれのお慰みのよすがにもと、こういうことをヌケヌケとホザくもんだから、ちかごろの作者は作はヘタになったが、宣伝だけはウマくなったと、悪口をきかれるゆえんかもしれぬから、まずは代は見てのおかえりということにしておこう。     佐七の青春  犬も食わぬ夫婦げんか   ——こら、風速五十メートルや  文化から文政年間へかけて、捕物《とりもの》の名人とうたわれた神田お玉が池の人形佐七、男がよくて度胸があって、気まえがよくて涙もあるという、三拍子も四拍子もそろった御用聞きだが、玉にきずなのはこの男、むかしからどうも女癖がよろしくない。  家にはお粂《くめ》という、もったいないほどの恋女房がありながら、もったが病で、べらぼうめ、米の飯とお八つとはまたべつだいとばかり、ちょっといい女をみると、すぐ、ちょっかいを出してみたくなるのが、この男のくせなので。  だから、お粂も目がはなせない。  しかもまた、このお粂というのが、これはもと吉原《よしわら》で、全盛をうたわれた花魁《おいらん》だが、くろうとあがりによくあるやつで、猛烈なやきもちやきだから、日に一度か二度は、かならず、ごたごたが起こるというのが、恒例になっている。  それでいて、ふたりともあいてに、ほれて、ほれて、ほれぬいているんだから、やりきれないのはふたりの子分、いささかそそっかしい江戸っ子の辰五郎《たつごろう》と、その反対に、しごくのんびりしている贅六《ぜいろく》の豆六だ。  さんざ仲裁にほねをおらされたあげくの果てが、さて台風一過すると、しごく濃厚なところを見せつけられるということに、およそ話がきまっているのだから、どうせ長くはない寿命と、かねてから覚悟をきめているけなげさ。 「ま、ま、まあ、親分、待ってください。そりゃおまえさんがよろしくない。いくら口でいいまけたからって、手を出すのはよろしくない。あねさん、あねさん、おまえさんもどうしたもんだ。少ししつこすぎるじゃござんせんか。親分がああして、あやまりなすったんだから、いいかげんかんべんしてあげたら……」 「フン、そんなことがあてになるもんか。あやまりさえすりゃすむかと思って、いつだってそうだよ。もう二度と、こんなだらしのないことはやらないと、さんざ手をついてあやまりながら、その舌の根もかわかぬうちに、またへんな女とかかりあって。ええッ、くやしい」 「なにを! この阿魔《あま》!」 「うわっ。そ、そりゃいけねえ、親分、そ、そんな手荒なことを。あねさん、あねさん、おまえさんもそんなところに、ゆうぜんとおみこしをすえてねえで、逃げたらどうですい、豆六、てめえはなんだ、そんなところでにやにやしてねえで、少しはてめえも……ううん、わ、いてえ……止めたらどうだ」 「せっかくやけど、兄さん、わてもう、ご免こうむらしてもらいまっさ」 「なにょ、この野郎!」 「だって、そやおまへんか。どうせわてらが割りこんだところで、ああ、さよか、そんなら、こんなあほらしいこと、よしてしまおか、ちゅうようなわけのもんやあらへん。たかだかそばづえくうて、こぶの二つ三つもこしらえるぐらいがおちや。兄さん、あんさんもよしときなはれ、ほっといたらしぜんにおさまりまんが。わて、つらつら案ずるに、こら、周期的にくる一種の病気だすな。間歇的《かんけつてき》痴話げんか病ちゅうやつや。こればっかりは、お医者はんでも草津の湯でもなおりまへんやろ」 「こんちくしょう。ま、ま、親分。親分、だ、だからおらあ贊六はきれえだ、ふ、不人情な、ひ、ひとが……うわっ、い、いてえ!」 「ほら、いわんこっちゃない、またひとつ、こぶがふえたがな」 「あ、あれえ、けったね、けったね、このわたしを、おまえさん、よくも足でけったね」 「あ、あたりめえよ、て、手でけるやつがあるもんか」 「ひーっ、く、くやしい!」 「うわっ、こ、こりゃたいへんだ。豆六、ご、後生だ、手をかしてくんねえ、おれひとりじゃ手におえねえ」 「こら、風速五十メートルや。あねさん、あねさん、よしたらどうだすいな、みっともない」 「出ていけ、出ていけ、このふてくされめ」 「いやだよ、あたしゃ出ていかないよ。おっかさんが死ぬときに、あたしゃくれぐれも頼まれたんだからね。佐七はああいううわきもんだけど、どうぞしんぼうしておくれ、どんなことをいわれても、けっしてこの家から出るんじゃないよ、おまえのほうが家付き娘のつもりで、出るなら佐七を出しとくれ、と、あたしゃ、あたしゃ、た、頼まれたんだからね、おまえさんこそ、とっととこの家を出ておくれ!」 「よし、ようくもぬかしたな。お粂、それじゃこれがわかれだぞ」  というようなわけで、きょうの荒れかたはまたかくべつで、お玉が池の人形佐七は、つまらないことから、とうとう家をとびだした。  雉子町《きじちょう》の奥の仮寝の夢   ——ああら、親分、みずくさいわよ 「あら、そこへいらっしゃるのは、お玉が池の親分さんじゃありませんか。あ、やっぱりそうだ。いいところでお目にかかりましたわ。いちどお礼に参上しようと思いながら、うわさにきくとおかみさんがどうもね、なんなんですってね。だもんですから、つい敷居がたかくって失礼しちゃったんですけど、親分さん、そのせつはいろいろと……」  鎌倉河岸《かまくらがし》のちかくだった。ばったり出あった女から、だしぬけにこうべらべらと浴びせかけられ、佐七はすっかりめんくらった。 「はて、おまえさんはどなたでしたっけね」 「あら、ひどいひと」  いきなり日傘《ひがさ》をきりきりもみながら、女はちょっとにらむまねをする。  としはお粂とそう違わないらしいが、ぽっちゃりとした顔だちだから、二つ三つはわかくみえる。  うすもののしたから、むっちりとした肉づきが、むせっかえるように盛りあがって、おしろいをはいたえり足が、ぽってりと白いのも目にいたい。 「ほら、馬道《うまみち》のお絹ですわ。山城屋さんの一件のときに、いろいろとお世話になって……ほんにあのとき、親分さんのいきなおはからいがなかったら、あたしゃどうなったかと思って」  と、お絹は艶《えん》なながしめで、にっと佐七の顔をみる。  どうでしろうとではないらしいが、それにしても佐七には、どうも思い出せないのである。  馬道の山城屋の一件というのは記憶にあるが、そのさいこんな女とかかりあったら、これほどの女だもの、いちどあったら忘れるはずはないんだが。  ……が、そんなこと、どうでもいいや。 「あ、そう、だったね。それでおまえさん、その後どうしていなさる」 「おかげさまで、あれからすっかり足を洗って、いまじゃ、ついそのさきにおりますの」 「そのさき?」 「ええ、雉子町《きじちょう》ですわ」  といいながら、お絹は佐七の腕に目をとめて、 「あら、親分さん、どうなさいましたの。まあ、ひどいみみずばれだこと」  日傘をおとしてお絹はついと、佐七のそばへよりそってくる。佐七はあわてて手をかくしながら、 「な、なんでもありゃしねえ」 「あら、みずくさいわ。かくさないでもいいじゃありませんか。ああ、わかった、また、あれなんでしょう。ほほほほ、親分、ごちそうさま」  お絹は佐七によりそうたまま、吸いこむような目つきで、いささかてれぎみのあいての横顔をじっとみている。佐七はにが笑いをしながら、 「なに、なんでもありゃしねえ。バカなこった。それじゃお絹さん、おいらは少しいそぐから……」 「あら、ひどいわ、親分。まあ、いいじゃありませんか。あたしね、ほんとになんなんですよ、いちどゆっくり親分さんに、お礼を申し上げなければ、どうしてもこの胸がおさまりませんの。ここで会ったのは、きっと神様のおひきあわせですわ。ねえ、あたしんとこ、ついこの横町なんですの。親分さんにきていただくようなところじゃありませんけど、ほんのお口よごしに……」 「おこころざしはありがたいが、またこのつぎにしてもらおう」 「あら、そんなこといけませんわ。こんないいしおって、またとありませんもの。だって、親分さんにはいつも、こういっちゃなんですけど、変なのがふたりついてるでしょう」  辰と豆六がこれを聞いたら、カンカンになっておこるだろう。お絹はますますすりよって、 「だからさ、ほんになんにもありませんのよ、およりくださらなきゃ、あたし、おうらみいたしますわ。ああ、それとも親分さん、おかみさんがこわいんですの」 「なにを、あんなやつ」 「ほっほっほ、あんなことおっしゃって。でも、心のなかじゃ、やっぱり思っていらっしゃるんでしょう? 夫婦げんかのあとはまた格別といいますもの」 「そ、そんなことはねえさ、きょうというきょうはあいそうがつきた。あんな阿魔《あま》のところへかえってやるものか」  佐七はまだむしゃくしゃと腹がたっている。 「まあ、そんなにひどいけんかをなすったの? それじゃいけませんわ、そんなときにお誘いしちゃ、あとあとまでおかみさんに恨まれますもの。ああ、ああ、つまらないわ。せっかくいいしおだと思っていたのに」  お絹はえりにあごをうずめながら、じろりとうわ目づかいに……どうでこいつ、ただのねずみじゃない。案の定、佐七のやつ、すぐその手にのってしまった。 「なに、そ、そんなことはどうでもいいが、うかうかおめえの口車にのせられて、ついていくのはいいが、いってみりゃ、れこが、長火ばちの向こうにでんとひかえているんじゃ、こちとらも引っこみがつかねえからな」 「あら、ひどい!」  お絹は腕をひるがえして、往来ばたをあられもない、ぎゅっと佐七の太ももをつねりながら、 「あたしにそんなものがあるとお思いになって? そりゃあたしのようなものでも、なにやかやといってくださるひとはありますけど、あたし、心のなかに堅くきめたひとがあるんですもの」  と、またしてもじいっと味なながしめ。こりゃ相当のものだ。佐七はあごをなでながら、 「ふふむ。おいらもその果報者にあやかりてえものだね」 「親分、おまえさんずいぶん情のこわいかたね」 「おっと待った、お絹さん、ここは往来ばただ。つねるのだけはかんにんしてくれ。ま、いいや、それじゃひとつ、ごちそうになろうじゃねえか。どうでおいらもむしゃくしゃしているところだ。どこかでいっぺい、やろうと思っていたところだが、どこで飲むのもおなじこと、おめえのようなきれいな女にお酌《しゃく》をしてもらやア、いうことはねえ。さあ、おめえの家というのはどこだえ」 「まあ、うれしい」  と、いうようなわけで、お粂にたいするつら当てもまじっていたのだ。  それからまもなく、この素姓もしれぬ女につれられ、佐七がくぐったのは雉子町の路地のおく、いきな格子《こうし》のはまった玄関。小女がひとり居眠りしていたが、女がなにか耳打ちすると、すぐ出ていってそれきり帰ってこない。  やがて酒がくる。  仕出しがくる。 「ほんに、なにもなくて恥ずかしいんですけれど」  というようなわけで、差しつ押えつ、むしゃくしゃ腹にたてつづけに飲んだものだから、たちまち酔いがまわったが、そのうちにこのごろのくせとして、馬の背をわけるような白い雨が、さーっとやつでの葉を鳴らした。 「まあ、気のきいた夕だちだこと。親分さん、ちょっとそこをしめましょうか」  にっこりわらったお絹が立って、雨戸をいれてしまったから、さてそのあとで、どんなことがおこったか、筆者も知らない。  目がさめれば水の上   ——ありゃ夢だったのかしら 「あれ、兄哥《あにい》、あそこにいるのん、あれ、うちの親分やおまへんか」 「あそこって、どこだえ」 「ほら、みなはれ、あの河岸《かし》につないである舟のなかや。あ、あら、やっぱり親分や、うちの親分や。のんきやなあ、親分、あんなところで寝てなはる」 「ちげえねえ。ちょっ、いやんなっちまうなあ。いかに夫婦げんかをしたからって、あんなとこでいい男が、ふて寝をしなくてもよさそうなもんだ。親分やあい」  いっときは、一寸さきも弁ぜぬほど、江戸の町々に降りこめた夕だちが、さらりとあがったあとのすがすがしさ。  鎌倉河岸の柳が青々と息づいて、路上にはあちこち小川ができて、いきおいよく音をたてて流れている。  そのぬかるみをふみながら、まい子になった親分さがしに、いましもここまでやってきた、きんちゃくの辰にうらなりの豆六。ふとみれば、河岸にもやった小舟のなかに、佐七はずぶぬれのまま、いい心持ちそうにたかいびき。 「あれ、兄哥、みなはれ。親分、酒を飲んでやはりまっせ」 「ほんとうだ。おおかたやけ酒というやつだろう。だけど、いかに酒をくらいよったからって、あの夕だちのなかを、こんなところで寝なくてもよさそうなもんじゃねえか」 「きっとなんやで、家へかえるつもりでここまできたが、敷居がたこうてかえれなんだんやろ。ともかく起こしてみまほ。親分、親分」  河岸にしゃがんだうらなりの豆六が、えんびをのばしてからだをゆすると、佐七はどたりと寝返りうちながら、 「よせやい、お絹さん、おれアもう……」 「あれ!」  辰と豆六はおもわず顔を見合わせた。 「なんだえ、ありゃ」 「お絹はんいわはったな。その女と酒飲んでいやはったんだっしゃろか」 「チェッ、おれアあきれてものがいえねえ。親分の達者なことはしってるが、ただあれだけのあいだに……しかも、あの大騒ぎのあとでよ。チョッ、かってにしやアがれ。豆六、このままほっとこうじゃねえか。ここでさらしものになってりゃ、親分も少しア目がさめるだろう」  ひとにさんざん気をもませながら、と、辰もいささか中っ腹だ。 「うん、それもええけど、なにせ差し迫ったあの事件や。目と鼻のあいだに、あんな人殺しがあったちゅうのに、こないなところで寝てたちゅうたら、親分の顔にかかわるがな。ともかく起こそやおまへんか」 「お、それもそうだ。いまいましいが、おこしてやろう。親分。これさ、親分。大事件だ、大事件だ」  大事件ときいて、うれしい夢をみていた人形佐七、思わずパッチリ目をひらいた。 「あれ、辰に豆六じゃねえか。はてな」  起きなおろうとする拍子に、舟がぐらりと揺れたから、佐七はどきっとあたりを見まわした。 「辰に豆六じゃありませんぜ。なんでもいいから、よだれをふきなせえ、みっともねえ」  佐七はきつねにつままれたように、きょろきょろあたりを見まわしながら、 「辰、おれアさっきから、こんなところに寝ていたのか」 「そうですよ。やれやれ、からだじゅうずぶぬれだ。ふんどしまでしみとおってらあ。さあさ、はやく舟から出なせえよ。おまえさんがこんなところで、へんな夢をみているあいだに、たいへんなことがもちあがった」 「へんな夢——? じゃ、ありゃ夢だったのか」  夢とは思えない。あの女の悩ましいまなざし。佐七はおもわずにやっと、思い出し笑いをもらしたが、もの問いたげなふたりの視線をかんじると、あわてて渋面をつくりながら、 「あっはっは、おれアどうもすっかり酔っぱらっちまったようだ。辰、お粂はどうしてる」 「あねさんも後悔して泣いてまさ。はやくぶじな顔をみせて、安心させてあげなせえ——といいたいが、おっと忘れてた。親分、たいへんだ。さっきの夕だちのさなかに、ついそこの雉子町のかどで人殺しがあった」  雉子町のかどときいて、佐七はぎっくり、おもわず懐中に手を入れたが、そのとたん、さっと顔色がかわった。  ないのだ。十手がない。  紙入れがない。  そして捕縄《とりなわ》がない。  小僧の懐中からふろしき包み   ——そら親分の十手に捕縄や  雉子町の殺人事件というのはこうである。  ひとしきり、ものすごい夕だちに降りこめられた人びとが、やがて雨も小降りになったので、外へ出てみると、柳ぶろのまえのあたりに小僧がひとり、肩からななめにたったひと討ち、みごとに切りさげられて死んでいる。  かいわいはたちまち大騒ぎ、さっそくもよりの自身番へとどける。自身番からは、お玉が池の佐七のもとへ、ただちに使いが走らされる。  この騒ぎに、お粂のヒステリーもけろりとおさまった。  なんといっても、ほれて、ほれて、ほれ抜いているこちのひと、目と鼻のさきにそんな大事件があったのに、知らぬとあって後日ものわらいの種となってはたいへんだ、と、さあ、こんどはそのほうの心配がたいへんだ。  いままで辰と豆六が、口をすっぱくして話しかけても、てんで見向きもしなかったやつが、にわかに両手をあわせて、拝むやら、頼むやら。 「後生だから、辰つぁん、豆さん、親分をさがしてきておくれ。あやまるよ。あたしゃどんなにでもしてあやまるからさ。一刻もはやく親分をさがしてきておくれ。こんなことで御用のまをかいちゃ、あたしゃ生きてはいられない」  と、泣くやらくどくやら。で、まあ、さんざん恩にきせたあげく、こうして佐七をさがしに出かけたふたりだった。 「それで、おめえたち、死体をまだみねえのか」 「みるもんですか。あねさんがやいやいいうもんですから、そんなひまなんかありゃしない。しかし、なんでも聞けば、殺されてるのは、どこかの丁稚《でっち》らしいといいますぜ。まだ前髪の小僧だといいまさあ」 「それがあんた、あの夕だちだっしゃろ。傘《かさ》をこうさしかけて、急ぎあしにきたところを、ばっさりうしろからやられたんやね。なにせ、あのひどい降りで、一寸さきも見えなんだもんやさかい、だれも下手人はおろか、そんな人殺しのあったことも、雨があがるまで、ついぞ気がついたもんはおまへなんだんや」 「よし、それじゃともかくいってみよう」  紙入れはともかく、十手や捕縄のないのが気にかかったが、そんなことはうかつにゃいえない。  すぐその足で雉子町の自身番までくると、表はワイワイというひとだかり。わってはいると、なるほど自身番のゆかに、血みどろになってよこたわっているのは、十五、六の、子どもとしては背のたかい、まだ前髪のかわいい小僧だ。 「おや、親分、ご苦労さまで」 「いや、ご苦労さま。これはどこの小僧さんですえ」 「さあ、それがいっこう——だれも知らぬと申しますが、もしや親分さんがご存じでは?」 「あっしが? あっしが知るもんですか。それでなにか、手がかりになるようなものでもありませんかえ」 「それが、親分」  と、自身番につめかけていた月番の連中、なにか意味ありげに顔を見合わせていたが、 「小僧のふところから、こんなふろしき包みが出てまいりましたので」 「どれどれ」  と、ふろしき包みをひらいたとたん、豆六がそばから、すっとんきょうな声をたてたものだ。 「あれ、親分、そりゃあんさんの十手に、捕縄に、紙入れやおまへんか」  わっと佐七は頭をおさえた。  佐七ほうほうの体《てい》   ——すねに傷もつ佐七はどきり  いかに死人のふところから、十手や紙入れが出てきたからといって、だれも佐七が人殺しをしたなどと思うものはなかったが、それにしても妙なぐあいだ。 「なに、こりゃさっき、あっしの落としたものですが、おおかたこの小僧、あっしのところへ届けてくれるつもりで、懐中へいれていたんでしょう。ともかく、こいつはいただいてまいりましょう」  佐七は苦しいいい抜けで、ともかくその場はのがれたが、それにしてもふしぎなのは、雉子町の奥の仮寝の夢。そのときお絹という女が、この三品をうけとって、まくらもとへおいたのをはっきりおぼえている。  それから佐七は帯をとき、寝床のなかから、えんびをのばして女の手をとりひきよせたが……。  その三つの品が、小僧のふところから出たところをみると、あやしいのはお絹という女。なにかこの小僧と因縁があるにちがいない。 「辰、豆六、おめえたち、ひと足さきへかえっていてくれ。おれアちょっと心当たりがあるから、そのほうへまわってくらあ」 「親分、なんならおいらが、代わりにいってもようござんすぜ。おまえさんは一刻《いっとき》もはやく、あねさんにぶじな顔を見せてあげなすったら?」 「なに、いいってことよ。すぐかえらあ。お粂にも心配せずと待ってろといってくれ」 「さよか、そんならそう申しときまほ。御用がすんだらすぐかえりなはれや。またほかへまわったりしたらあきまへんで」 「わかってるよ。やっぱり女房じゃねえとおさまらねえと、そういっといてくんな」  佐七もどうやら、心細くなってきたとみえる。  そりゃそうだろう。  いい気になって、鼻のしたをながくしていたところを、まんまと背負い投げをくらわされたような心持ちだ。それにしても、お絹という女、さっきはあんなに親切らしく持ちかけやアがって、さては深い魂胆のあってのことか、と、いまさら女というものがこわくなる。  それでともかく辰と豆六を追いかえした人形佐七、まをはかって、見覚えのある雉子町の奥、いきな格子戸をひらくと、出てきたのはさっきの小女。  佐七の顔をみると、はっとばつの悪そうないろ。 「おお、ねえや、おかみさんはおいでなさるかえ」 「はい、あの、それが……」  と、小女が口ごもっているとき、 「おきん、だれだ、お客さんかえ」  と、奥のほうから太い声。  佐七がはっとひるんでいるところへ、五十がらみのでっぷりふとった、どこかひと癖ありそうな、だが、みたところどこかのだんな衆といったのが、のっしのっしと奥から出てきた。 「お絹にご用のあるというのはおまえさんかえ。して、どういうご用ですえ」  なんとなくかさにかかったことばつき。疑い深そうな目が、ジロジロと佐七の男ぶりをみている。 「なに、この表通りで、人殺しがありましたから、それでこちらで、なにかご存じじゃねえかと思ってまいりましたのさ」 「さあ、知りませんなあ。こっちにゃかかりあいのないはなし、それにお絹はいませんよ」 「るす……? どこへいったのかご存じじゃ……」 「知りませんな。どうせああいううわきもんだ、いちいち番をしているわけにゃいきませんのさ。さっきもなんだか、さかりのついた犬のようなやつを、ひとりくわえこんだという話だから、さっそく出向いてきたんだが、姿がみえねえところをみると、おおかたそいつと、どこかへしけ込みやアがったにちげいねえ」  佐七ははっと目を伏せた。  さっき小女が出ていったきり、かえってこなかったと思ったら、てっきり、このだんなのところへ注進にいったにちがいない。それにしてもこの男、自分がそれだということを知っているのだろうか。いや、いまは知らなくても、どうせあとで、おきんの口からわかるだろう。そう思うと、佐七は足の裏がむずがゆくなるような気持ちだ。  やっぱり悪いことはできない。 「そうですかえ、それじゃまたきます」  ほうほうのていで逃げだした人形佐七、 「チョッ、よいあとは悪いというが、ほんとうだ」  だが、このままにしておくわけにはいかない。それからすぐにわが家へかえった人形佐七、辰と豆六を呼びよせると、 「辰、豆六、おめえたちに御用がある」 「へえ、へえ」 「雉子町の横町にお絹という、おおかたおめかけだろう、ちょっとあだっぽい女がある」 「へっへっへ」  さっきの佐七のもらしたねごとを思い出した辰と豆六、おもわずにやりと顔見合わせる。 「そのおめかけを見張っていてくれ。それから、そいつのだんなだが、五十がらみの少々すごみのあるやつがいるが、こいつどこのだんなだか、その身もともよく洗ってきてくれ。なにを笑ってやアがるんだ。御用だ、さっさといってこい」  まさか、あんなねごとをもらしたとは気がつかない。佐七がおつに澄ましているから、辰と豆六はおかしくてたまらない。表へとびだすと腹をかかえて笑いだしたが、こちらは家のなか、風雲いまだまったくおさまったというわけではない。 「おまえさん」  辰と豆六が出ていってから、よっぽどたってから、やっとお粂がむきなおった。ほら、また顔色がかわっていると、すねに傷もつ佐七はどきり。 「おまえさん、いま雉子町のお絹さんといったね。おまえさんその家へ、あがりこんでいたんじゃないかえ。いいえ、知ってるよ。あたしゃ豆さんからきいたけど、さっき舟のなかで寝ているとき、おまえさんお絹さんの名を、ねごとにいったというじゃないか」 「げっ」 「そして、きけば、殺された小僧のふところから、おまえさんの十手や紙入れが出たという話。おまえさん、そのお絹さん……とやらに、それをわたしたのではないかえ。ねえ、正直に話しておくれ。あたしゃやきもちできいてるんじゃない、少々気になることがあるからさ」  そうら、またはじまったと思ったが、しかし、お粂のようすはいつもとちょっとちがっている。なんとなく心がかりなところがあって、やきもちどころの騒ぎじゃないという顔色だ。  夫婦げんかのあとは絶えまじ   ——だまされた、あたしゃくやしい  お絹のだんなというのは、海賊橋付近で、海産物問屋を手広くやっている、淡路屋利兵衛《あわじやりへえ》という男だとわかった。が、ふしぎなことに、お絹はあれきり行くえがわからない。  しかも利兵衛は、その行くえをさがしているふうもなく、二、三日たつとあの小女にもひまを出して、妾宅《しょうたく》をたたんでしまった。  いっぽう、殺された小僧というのは、日本橋の駿河屋《するがや》という質店のもので、名は長吉、お店のご用で伝馬町へ、使いにいったかえりだということがわかった。  だが、それがなんのために、あんなむざんな死にかたをしたのか、さっぱりわけがわからない。  長吉は越後《えちご》のものだが、江戸にひとり姉がいるという話。しかし、その姉については、長吉はなぜかひたかくしにかくしていたから、だれも知らない。  けっきょく、事件は五里霧中にはいってしまったが、ここにひとつのふしぎというのは、あれいらい、お粂の外出が多くなったことだ。  どこへいくのか、辰や豆六がたずねてもいわない。佐七はあの日とっちめられて、お絹という女の家で、酒を飲んだというところまで白状したが、それから先はかくしているから、なんとなくお粂の顔を見るのがまぶしいのである。  しかし、ふしぎなことに、お粂は、いつもだと最後の最後まで、白状させなければおさまらないのに、こんどばかりは、それで満足しているからいよいよ妙だ。  きょうもきょうとて、お粂は、昼下がりから出ていったが、夕がたごろ、顔色かえてかえってくると、 「おまえさん、ちょっと。ちょっと、これに見覚えがありゃしないかえ」  と、差し出したのはべっこうのくし。見ると、二、三本ぬけ毛がからまっている。 「なんだ、それがどうかしたのかえ」 「おまえさん、こりゃお絹さんのくしですよ」 「げっ。おめえ、お絹……さんを知っているのかい」 「そんなことはどうでもいい。おまえさん、お絹さんはまだ生きているよ。淡路屋のおくの土蔵に押しこめられているんです。あたしゃこのあいだから、あのまわりに張りこんでいたんだが、きょう、蔵の窓から白い手が出て、これを外へ投げたから、急いで拾ってきましたのさ。おまえさん、なにをぐずぐずしているんだよ。今夜、淡路屋から長崎へ送る荷物が出るんです。ずいぶんたくさんのつづらや木箱が、掘り割りから舟へ積みこまれるのを見ましたが、ぐずぐずしてると、お絹さんも箱につめこまれ、そして途中、舟のうえで殺されるにちがいない。おまえさん、はやくいって、お絹さんを助けておくれ」  お粂がわっと泣きだしたから、佐七をはじめ、辰も豆六も唖然《あぜん》とした。 「ま、まあ、あねさん、どないしやはったんや。わてらにはさっぱり、わけがわかりまへんがな。もう少し、くわしゅう話しておくれやす」 「もっともだ。お粂、まあ、もう少しおちつきねえな」 「いいえ、おちついてる場合じゃない。おまえさんまだわからないのかねえ。淡路屋は抜け荷買いをやっているんですよ。そこへこのあいだ、お絹さんがおまえさんを家へひっぱりこんだろう。あのおきんという娘が、すぐさまそれを淡路屋へ注進したから、すねに傷もつあの利兵衛はどきりとして、お絹さんが訴人でもしたかと、そこでさっそく駆けつけてくると、おまえさんを殺すつもりで、お絹さんの家から出てきた長吉さんを殺したにちがいありません。なにしろ、あのときはひどい降りで、一寸先とはみえなかったし、長さんはあのとおり、子どもにしちゃ大がらなほうだから。さあ、おまえさんはやくいって、お絹さんを助けておくれ」  さあ、いよいよわからない。いかに岡っ引きの女房とはいえ、お粂がどうしてそんなことを知っているのだろう。 「お粂、話はわかった。しかし、おめえまだ、おいらにかくしてることがありゃアしねえか。どうしておめえはお絹を知っているんだ」 「おまえさん、かんにんしておくれ」  お粂はぱっと耳を赤くして、 「このあいだのあたしのやきもち、あれはみんな狂言だよ」 「きょ、狂言?」  辰と豆六がすっとんきょうな声をあげたのもむりはない。 「あいな。それというのが、あまりおまえさんのうわきがはげしいゆえ、どうしたらなおるだろうと、いろいろ苦労しているところへ、ばったり出会ったのがあのお絹さん。お絹さんはあたしが吉原にいたころ、振りそで新造をしていたひと。そこでつい、あたしがくったくを打ちあけると、お絹さんがさっそく筋を書いてくれました。つまり、お絹さんがいやらしくおまえさんに水をむけ、家へひっぱりこんで、さんざん酒を飲ましたうえ、寝ているうちに十手捕縄をまきあげて、おまえさんをどこかへ捨ててしまう。だいじな十手や捕縄をなくすりゃ、少しはおまえさんも目がさめて、これからさき、素姓のしれぬ女にちょっかい出すようなことはあるまいと、それがお絹さんの書いた筋書きなんです。でも、おまえさんが、うまうまそれに乗ってくれりゃいいけど、のらなきゃ困るから、というので、それで、このあいだのやきもち狂言。むしゃくしゃ腹でとびだしたところへ、ばったりお絹さんに出会ったら、きっとその手にのるだろうと……」 「てへへへっ!」 「うわっ、わて、よういわんわ」 「おまえさん、かんにんしておくれ。これもおまえを思うゆえ」  と、佐七のひざに手をおいて、お粂がしなだれかかったから、 「わっ、こら、えらい災難や」 「べらぼうめ。親分、それじゃあのときの、あっしのこぶはどうしてくれる」  口とがらせて詰めよるふたりに、佐七はてへへと頭に手をおき、平身低頭。いらい当分ふたりに頭があがらない。  淡路屋の一味はその夜のうちに一網打尽、お絹は箱詰めになっていたところを、あやうく佐七に救われた。  かくて、思いがけないことから、ながらくその筋をなやませていた抜け荷買いの一味はとらえられたが、ここにかわいそうなのは丁稚《でっち》の長吉。姉がいやしい稼業《かぎょう》をしているので、ひたかくしにかくしていたが、それでもときどき会いにきていた。  あの日も伝馬町からのかえりがけ、姉のところへよると、それじゃついでに、これをこっそりお玉が池の親分のおかみさん、お粂さんというひとに、わたしておくれと頼まれて、それをふところにして表へ出たところを、佐七にまちがえられて、バッサリやられたというわけだ。  それからまもなく、一件落着のあと、お絹はあらためて親分のところへ礼にきたが、さて、そのかえったあとがまたひと騒動で。 「おまえさん!」  と、お粂の声がだしぬけに、たつみあがりにかん走ったから、さあたいへん、佐七は胸のなかでおもわずドキリ。 「さっきから見ていたが、お絹さんとおまえさんの目つきがどうもおかしい。おまえさん、まさかあのときお絹さんと……」 「なにをバカな。お絹はおまえにたのまれたとおり、おいらを盛りつぶしただけじゃアないか」 「いいえ、いいえ、ただそれだけなら、お絹さん、あんなに顔を赤くしやアしない。それに、おまえさん、なんだか目配せをしていたね。あ、だまされた、だまされた。あたしゃくやしい」 「な、なにをしやアがるんだ!」  そうら、はじまった。  この調子じゃここ当分、かわいそうに、辰の頭にこぶのたえることはないだろう。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻一) 横溝正史作 二〇〇五年五月十五日